譚政
譚政 谭政 Tan Zheng | |
---|---|
譚政 | |
生誕 |
1906年6月14日 清 湖南省湘郷県楠竹山村 |
死没 |
1988年11月6日(82歳没) 中華人民共和国 北京市 |
所属組織 | 中国人民解放軍陸軍 |
軍歴 | 1927年2月 - 1988年11月 |
最終階級 | 陸軍大将 |
出身校 | 赤軍大学 |
譚政 | |
---|---|
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 譚政 |
簡体字: | 谭政 |
和名表記: | たん せい |
譚政(たん せい、簡体字:譚政、本名:譚世名、字:挙安、1906年6月14日 - 1988年11月6日)は、中華人民共和国の政治家、軍人。主として政治委員(政治将校)として軍隊の政治工作を担当した。1960年代に左遷されたが、1977年8月の文化大革命終結後に復権し、名誉回復を果たした。
略歴
[編集]1906年6月14日に清の湖南省湘郷県楠竹山村(現在の湘郷市竜洞鎮)に誕生した。小学校の教員として働きつつ、反帝愛国運動に参加した。1927年2月に国民革命軍第4方面軍総指揮部特務営(大隊)に入隊し[1]、文書と書記を務めた。同年9月に湘贛辺秋收起義に参加し、同年10月に中国共産党に入党した。
土地革命戦争時、中国工農紅軍第4軍の前敵委員会秘書、第31団(連隊)党委員会秘書、党第4軍軍事委員会秘書長、第4軍政治部訓練部部長、第12軍と第22軍の政治部主任、第1軍団第1師政治委員、1935年12月に第1軍団政治部組織部部長などを歴任し、漳州戦役、南雄水口戦役、中央ソビエト区の反「囲剿」、長征に参加した。1929年12月の党第4軍第9次代表大会(古田会議)参加後、無産階級思想による軍隊建設を堅持した。戦時の政治工作を重視し、「新田夜間戦闘政治工作」・「高興圩以北戦闘政治工作」などの報告書を作成した。1936年3月に「紅軍の新しい歴史時期の政治工作に関する意見」を執筆し、同年に中国人民抗日紅軍大学で学ぶ。
戦時中
[編集]1937年7月に始まった日中戦争の時、同年10月に党中央革命軍事委員会総政治部副主任となり、陝甘寧晋綏連防軍副政治委員兼政治部主任、留守兵団政治部主任を歴任した。王稼祥などと共に政治工作を担当し、「八路軍軍政雑誌」上で多数の文章を発表した。1944年4月に党中央の委托を受けて党西北局高級幹部会議上において、「軍隊政治工作問題に関する」報告を行い、古田会議の決議に基づいて軍隊政治工作の原則などを論述した。彼が起草したこの報告は、毛沢東・周恩来などの修正を経て党中央拡大書記処会議で批准され、全党・全軍の各級幹部の教材となった。1945年6月に党第7回中央候補委員に選出された。
終戦後
[編集]1946年1月に東北民主連軍政治部主任、1949年3月に第4野戦軍政治部主任、副政治委員を務め、遼瀋・平津などの戦役の政治工作を指導した。
1949年10月の中華人民共和国の建国後、中南軍区兼第4野戦軍副政治委員兼政治部主任、中南軍区第三政治委員、総政治部主任、1954年2月に党中央軍事委員会常務委員、同年9月に国防部副部長、同年10月に総政治部副主任を歴任した。1955年9月に大将の階級を授与され、1956年9月に党第8回中央委員、中央書記処書記に選出された。
1961年1月に林彪に迫害され、党中央軍事委員会常務委員、中央書記処書記などの職務を剥奪された。1965年11月に福建省副省長、1975年8月に党中央軍事委員会顧問となる。1979年3月に党中央軍事委員会により名誉回復(平反)を果たし、1988年7月に一級紅星功労栄誉章を授与される。
同年11月6日に北京にて、82歳で死去した。
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 譚政記念館(簡体字)
軍職 | ||
---|---|---|
先代 羅栄桓 |
総政治部主任 第3代:1956年12月 - 1961年1月 |
次代 羅栄桓 |