谷脇古墳
谷脇古墳 | |
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石室開口部 | |
所在地 | 奈良県宇陀市大宇陀守道字黒石モト下[1] |
位置 | 北緯34度28分15.30秒 東経135度56分58.25秒 / 北緯34.4709167度 東経135.9495139度座標: 北緯34度28分15.30秒 東経135度56分58.25秒 / 北緯34.4709167度 東経135.9495139度 |
形状 | 円墳 |
規模 |
東西18m・南北15m 高さ2.5m |
埋葬施設 |
両袖式横穴式石室 (内部に組合式石棺1基) |
出土品 | 金環・鉄製品・須恵器 |
築造時期 | 6世紀中葉 |
史跡 | 奈良県指定史跡「谷脇古墳」 |
有形文化財 | 出土遺物(宇陀市指定文化財) |
特記事項 | T字形石室 |
地図 |
谷脇古墳(たにわきこふん)は、奈良県宇陀市大宇陀守道(おおうだもち)にある古墳。形状は円墳。奈良県指定史跡に指定され、出土遺物は宇陀市指定有形文化財に指定されている。
概要
[編集]奈良県東部、宇陀盆地南部の尾根上に築造された古墳である。これまでに1944年(昭和19年)に石室発掘調査が、1996年(平成8年)に墳丘測量・石室実測調査が実施されている[1]。
墳形は円形で、東西18メートル・南北15メートル・高さ2.5メートルを測る[1]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方向に開口する[1]。玄室の長辺に羨道が接続してT字形の平面形をなすという、珍しい形状の石室になる。玄室内部には組合式石棺が据えられる[1]。石室内からは副葬品として金環・鉄製品・須恵器(TK10型式期)が検出されている[1]。築造時期は古墳時代後期の6世紀中葉頃と推定される[1]。
古墳域は1978年(昭和53年)に奈良県指定史跡に指定され[2]、出土遺物は1998年(平成10年)に宇陀市指定有形文化財に指定されている[3]。
遺跡歴
[編集]- 1944年(昭和19年)、石室発掘調査(奈良県教育委員会)[1]。
- 1978年(昭和53年)3月28日、奈良県指定史跡に指定[2]。
- 1996年(平成8年)、墳丘測量・石室実測調査(花園大学考古学研究室、1998年に報告)[1]。
- 1998年(平成10年)9月30日、出土遺物が宇陀市指定有形文化財に指定[3]。
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。玄室の長辺中央部に羨道が接続し、平面形としてはT字形をなす。石室の規模は次の通り[1]。
- 石室全長:6.5メートル
- 玄室:長さ2.48-2.92メートル、幅3.45メートル、高さ2.8メートル以上
- 羨道:長さ4.37メートル、幅1.06-1.65メートル
羨道は玄室の片側(東側)に寄っており、片袖式に近い両袖式である[4]。石室の石材は大型の川原石で、四方から持ち送り天井石1枚を架構する[4]。床には全面に小礫を敷く[4]。
玄室内部では、石室主軸の直交方向(玄室長辺の平行方向)に流紋岩質溶結凝灰岩(榛原石)製(文献によっては花崗岩製[4])の組合式石棺が据えられている[1]。
この石室内では、人骨の出土状況から、東西を各頭位とする2体の安置が想定される[4]。また1944年(昭和19年)調査では金環4個(2対)・須恵器(平瓶・壺・坏身・坏蓋各1個)等が[4]、1996年(平成8年)調査では鉄製品(鏃・刀子)が検出されている[1]。
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石室俯瞰図
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玄室
左に東壁、右に玄門、左手前に組合式石棺。 -
玄室東壁
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玄室北壁(奥壁)
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玄室西壁
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玄門
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玄室の組合式石棺
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羨道(開口部方向)
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羨道(玄室方向)
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開口部
文化財
[編集]奈良県指定文化財
[編集]- 史跡
- 谷脇古墳 - 1978年(昭和53年)3月28日指定[2]。
宇陀市指定文化財
[編集]- 有形文化財
- 谷脇古墳出土遺物 一括(考古資料) - 1998年(平成10年)9月30日指定[3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(奈良県教育委員会・宇陀市教育委員会設置)
- 「谷脇古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301。
- 杉山秀宏「谷脇古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 柳澤一宏「谷脇古墳」『続 日本古墳大辞典』東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 『古墳測量調査集成I(花大考研報告13)』花園大学考古学研究室、1998年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 県指定文化財 > 谷脇古墳、市指定文化財 > 谷脇古墳出土遺物 - 宇陀市ホームページ