コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

豆千代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1930年代

豆千代(まめちよ、1912年1月2日 - 2004年3月22日)は、昭和期の日本の芸者歌手。本名は福田八重子

経歴

[編集]

明治45年(1912年)、岐阜県武儀郡富之保村(現・関市)で生まれる。芸人にするために幼少から三味線長唄を仕込まれ、小学校へ入学後は日本舞踊義太夫常盤津清元哥沢三味線など数々の芸事を習う。9歳で少女歌舞伎団の団員として全国への巡業に赴く。大正13年(1924年)、13歳の時に地元の芸者置屋に入り花柳界入り。その後芸妓になる。

芸者の小唄勝太郎の唄う「島の娘」のヒットによって旋風を起こした鶯歌手(芸者歌手)ブームによって、二匹目の泥鰌を狙ったコロムビアレコードが白羽の矢を立てたのが、美貌と美声で評判だった芸妓の豆千代であった。生来、芸事を好んだ豆千代は、地元の応援もあって名古屋の料亭「五月」の一室で哥沢のテストを受けて合格し、昭和8年(1933年)「戀はひとすじ」で日本コロムビアから専属歌手デビュー。

翌年には、当時の人気歌手・松平晃と歌った「曠野を行く」がヒット。さらに昭和10年(1935年)には、同じくデュエットを組んだ松平晃との共演による「夕日は落ちて」が、折りしも満州国建国による大陸ブームの波に乗り大ヒット。時代に後押しされスター歌手の仲間入りを果たす。

一躍、流行歌手となってからもレコーディングのたびに岐阜から汽車で上京し、独り公園で熱心に歌を稽古するという日々を続けた。「廻り燈篭」「貫一お宮」「浮名三味線(お初の唄)」と地道にヒットを続け、昭和17年(1942年)には「狸御殿シリーズ」の大映映画「歌う狸御殿」に出演し、高山広子の継母役を演じた。この映画で豆千代に目を付けた大映永田雅一は、映画界入りを勧めるが、「歌で食べられなくなったらお世話になります」ときっぱりと出演を断ったという逸話が残っている。

戦後、歌手としてはレコード会社に所属しなかったが、映画出演やステージに活躍する一方、とんかつ屋を経営するなど多才な面を見せた。昭和26年(1951年)、レコード製造を再開したタイヘイレコードと契約し専属となる。海外資本の参加により、社名がマーキュリーレコードとなっても活躍し、「そんなこと知らない」「雨の明石町」などがヒットした。

昭和40年代の懐メロブームにも時折登場し、「夕日は落ちて」や「浮名三味線」などを東京12チャンネルの音楽番組「なつかしの歌声」で披露している。その頃、豆千代の歌手生活の集大成とも言うべきLPアルバム「明治一代女」が発売された。また、古巣のコロムビアで故郷の岐阜の民謡や、端唄、小唄、明治大正の流行小唄などを盛んにレコーディングした。晩年は地元岐阜で歌手としても活動し、平成に入ってからもNHKラジオ放送「歌謡大全集」に出演したが、平成16年(2004年)3月22日に93歳で没した。

代表曲

[編集]
  • 恋はひとすじ (1934.3)
    作詞:西條八十/作曲:佐々紅華/編曲:佐々紅華
  • 曠野を行く 共演:松平晃 (1934.10)
    作詞:西岡水朗/作曲:江口夜詩/編曲:江口夜詩
  • 夕日は落ちて 共演:松平晃 (1935.9)
    作詞:久保田宵二/作曲:江口夜詩/編曲:江口夜詩
  • 廻り燈篭 (1935)
    作詞:久保田宵二/作曲:江口夜詩/編曲:
  • 貫一お宮 共演:松平晃 (1935.12)
    作詞:高橋掬太郎/作曲:江口夜詩/編曲:江口夜詩
  • 風になよなよ (1936.2)
    作詞:高橋掬太郎/作曲:大村能章/編曲:奥山貞吉
  • 薄野 (1936.8)
    作詞:高橋掬太郎/作曲:佐々紅華/編曲:佐々紅華
  • 浮名三味線(お初の唄) (1937.4)
    作詞:邦枝完二/作曲:大村能章/編曲:大村能章
  • 泣くなんて馬鹿よ (1952.1)
    作詞:牧喜代司/作曲:島田逸平/編曲:
  • そんなこと知らない (1952.6)
    作詞:牧喜代司/作曲:島田逸平/編曲:島田逸平
  • 天龍しぶき (1953.4)
    作詞:島田芳文/作曲:飯田景応/編曲:飯田景応
  • 雨の明石町 (1953.12)
    作詞:島田芳文/作曲:摩耶潔/編曲:島田逸平
  • 照る日くもる日 (1954.12)
    作詞:松村又一/作曲:豊田一雄/編曲:飯田景応

豆千代が普及に努めた岐阜民謡

[編集]
  • 「郡上節」(郡上踊り「かわさき」)
  • 「岐阜音頭(おばば)」
  • 「どんどいつ」(根尾踊り「どどいつ」)
  • 「ホッチョセ」
  • 「高山音頭」