豊川空襲

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豊川空襲(とよかわくうしゅう)は、第二次世界大戦アメリカ軍により行われた愛知県豊川市に対する空襲

豊川海軍工廠へ行われた空襲であり、この空襲で豊川海軍工廠は壊滅し、勤労動員されていた中学生女学生国民学校児童が多く亡くなっている。

概要[編集]

  • 1944年(昭和19年)11月23日午後0時30分頃、偵察機F-13(B-29を改造した写真偵察用偵察機)により、豊川海軍工廠一帯の写真撮影が行われる。
  • 1945年(昭和20年)8月7日
午前2時40分~4時頃、グアム島テニアン島サイパン島よりB-294部隊、計131機(135機、124機の説もある)が離陸する。
午前6時40分、護衛のP-51戦闘機48機(45機の説もある)が硫黄島より離陸する。
午前8時53分、三重県志摩半島沖を通過する編隊をレーダーが補足。
午前10時6分、編隊が知多半島上空を通過。海軍豊川工廠へ向かうことが判明する。空襲警報が発令する。
午前10時13分、先行していたB-29、12機により豊川海軍工廠への空襲が開始される。また、P-51による機銃掃射が開始される。
午前10時30分、一部の爆弾が誤って東海道本線愛知御津駅に投下される。
午前10時32分、帰途途中のB-29のうち1機が、静岡県二俣町(後の天竜市。現浜松市天竜区)に爆弾を投弾する。
午前10時39分、豊川海軍工廠への空襲が終了する。投下された爆弾は、M64(500ポンド)爆弾813tという。迎撃する戦闘機は皆無であり、宝飯郡御津町大恩寺山(御津山)山頂と豊橋市石巻本町、権現山、豊川海軍工廠の高射砲が迎撃を行ったが、B-29が1機被弾したのみである。

尚、第1目標で豊川海軍工廠が目視爆撃が出来なかった場合、第2目標は横須賀の航空機工場攻撃が予定されており、その護衛として別にP-51戦闘機52機が伊豆大島上空で待機した。豊川海軍工廠への空襲が成功したため、P-51戦闘機は東京湾周辺の送電設備、変電所、鉄道施設などを機銃掃射している。

被害[編集]

  • この空襲で豊川海軍工廠は壊滅し、その機能を失ってしまった。
  • 人的被害は諸説あるが、死者2,417人、そのうちに勤労動員の中学生・女学生・国民学校児童は447人に及んだ。尚、死者数は2,818人、2,544人、2,672人の説もある。

備考[編集]

  • 1946年(昭和21年)には豊川稲荷北西部に海軍工廠戦没者供養塔が建立され、毎年8月7日に豊川稲荷では空襲による犠牲者の霊を慰める年忌法要が営まれてきた。2020年(令和2年)、その中心を担ってきた八七会が活動を終了した[1]
  • 盆踊りをメインとした「豊川みたま祭り」が催されている[2]
  • 2018年(平成30年)、豊川海軍工廠の跡地の一角に豊川海軍工廠平和公園が開園した[3]。園内の豊川市平和交流館では豊川海軍工廠と豊川空襲に関する資料の展示が行われている[4]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • Werrell, Kenneth P (1996). Blankets of Fire. Washington and London: Smithsonian Institution Press. ISBN 1-56098-665-4 
  • Bradley, F. J. (1999). No Strategic Targets Left. Contribution of Major Fire Raids Toward Ending WWII. Turner Publishing. ISBN 1-56311-483-6 
  • Carter, Kit C (1975). The Army Air Forces in World War II: Combat Chronology, 1941-1945. DIANE Publishing. ISBN 1-4289-1543-5 
  • Crane, Conrad C. (1994). The Cigar that brought the Fire Wind: Curtis LeMay and the Strategic Bombing of Japan. JGSDF-U.S. Army Military History Exchange. ASIN B0006PGEIQ 
  • Dorr, Robert F. (1994). B-29 Units of World War II. Osprey Publishing. ISBN 1-84176-285-7