朝貢国
朝貢国(ちょうこうこく、英語: Tributary state)とは、軍事力の強い国に貢ぎ物を献上し続けることで、その強国の保護を受け続ける属国のことを指す[1]。
この関係では、現代の「保護料の支払い」と同様の意味を持つ。上位の国家が下位の国家から金銭やそのほかの貢ぎ物を受け取りつつ、下位の国家の領土や主権を保護している。もし下位の国家が第三国から侵略を受けた場合、上位の国家もその国と戦うという仕組みである。また、「属国が宗主国への貢ぎ物を送る」という行為は、漢字圏では簡易に「朝貢」という言葉で表現できる。朝貢国側はより定期的に朝貢し、より宗主国に服従するほど、宗主国側はより朝貢国を保護するとされている。
概要
[編集]古代中国
[編集]東アジアでは、中国を中心に世界でも最も発達した朝貢制度が確立され、「冊封体制」と呼ばれていた[2][3]。多くの東アジア、中央アジア、東南アジア一帯の国々は、歴代の中華王朝と接触し、朝貢体系の概念を触れ聴けていた。歴史的に、中国の皇帝は「華夷秩序」という考え方に基づき、自らのことを全世界の君主、すなわち「天下唯一の天子」と信じていた。このため、古代中国では「外交」や「対等な外交関係を持つ」という概念が存在せず、対外関係はすべて「朝貢関係」や「冊封体制」の枠内で行われていた。
また、これらの理論は儒教の教えに従い、中国文明は昔から「農業」を重視し、「貿易」に対して軽蔑的な態度を取り、「外国人が中国製品を欲しがる一方で、中国人は外国製品を必要としない」という強い自信を持っていた。もし外国との貿易が許可された場合、中国側は一方的に「外国人が中華文化を敬愛したため、朝貢してきた」や「慈悲深い中華皇帝は、遠方の貧しい小国へ贈り物を与えた」と見なされていた。
さらに、対外貿易においては「中国側が損失を被り、外国側が利益を得ていた」としても、古代の中国政府はそれを認めず、あくまでも「外国が中国に朝貢した際、中国が寛大なおもてなしをした」という風に解釈していた。このため、朝鮮半島、ベトナム、琉球王国などの朝貢国は、わざと質の低い貢ぎ物を中国に持参し、中国の高価な宝物を受け取って本国に持ち帰り、国内で売却するという事例が多く見られていた。ヨーロッパから平等な外交を求めて訪れた使節団や交易団、伝道士たちは、中国人の思想がいかに「外国=朝貢国」という観念に深く結び付いているかを実感し、多くの文献にその様子を記録していた。
その他
[編集]- アル=アンダルスでは、グラナダ首長国における最後のムーア人政権であるナスル朝が、キリスト教勢力であるカスティーリャ王国、つまり昔のスペインへ朝貢を行っていた。
- オスマン帝国の周辺部に位置する朝貢国は「付庸国」と呼ばれ、さまざまな形でオスマンへ従属していた。一部の国は独自の指導者を選ぶことを許されていたが、ほかの国々は領土の維持のためにオスマン帝国への貢納を行っていた。
- 西欧列強は朝貢国が「保護領」と認識し、非西洋の国家は欧州国家の保護を受ける時点で自動的に保護領となり、事実上では欧州から植民地扱いを受けていた。
- フィリピンでは、各バランガイのダトゥたちが、16世紀後半から、1898年に群島が米国の支配下に入るまで、スペイン帝国のアジア封臣となっていた。その主権は1594年6月11日にスペイン国王フェリペ2世によって承認されたが、その条件としてスペイン王室への貢納が課されていた[a]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- a. ^The king further ordered that the natives should pay to these nobles the same respect that the inhabitants accorded to their local lords before the conquest, without prejudice to the things that pertain to the king himself or to the encomenderos (trusteeship leaders). The original royal decree (Recapilación de leyes; in Spanish) says:[4]
- No es justo, que los Indios Principales de Filipinas sean de peor condición, después de haberse convertido, ántes de les debe hacer tratamiento, que los aficione, y mantenga en felicidad, para que con los bienes espirituales, que Dios les ha comunicado llamándolos a su verdadero conocimiento, se junten los temporales, y vivan con gusto y conveniencia. Por lo qua mandamos a los Gobernadores de aquellas Islas, que les hagan buen tratamiento, y encomienden en nuestro nombre el gobierno de los Indios, de que eran Señores, y en todo lo demás procuren, que justamente se aprovechen haciéndoles los Indios algún reconocimiento en la forma que corría el tiempo de su Gentilidad, con que esto sin perjuicio de los tributos, que á Nos han de pagar, ni de lo que á sus Encomenderos.
- 日本語に翻訳すると:[5]
- 「フィリピンのインディアン(先住民)の首長(プリンシパレス)が、キリスト教への改宗後にさらに悪い状況に置かれるのは正しくない。それどころか、彼らの愛情を得て忠誠を保つために、その待遇は彼らが満足し快適に暮らせるようなものであるべきである。神が彼らを真の知識に導くことで授けた霊的な祝福に加えて、物質的な祝福も得られるようにするためである。したがって、我々はこれらの島々の総督に、彼らに良い待遇を示し、彼らが以前は主であったインディアンの統治を、我々の名において再び委ねるよう命じる。そしてその他すべての点において、総督たちはプリンシパレスが正当に利益を得られるよう配慮しなければならない。インディアンたちは、異教徒であった時代と同様に、プリンシパレスに対して何らかの認識として支払いを行うべきである。ただし、その支払いは我々に支払われるべき貢納や、彼らのエンコメンデロに属するものを害するものであってはならない。」
出典
[編集]- ^ [1] Asiatic, Tributary, or Absolutist International Socialism, Nov. 2004
- ^ “Archived copy”. 2017年1月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年3月4日閲覧。
- ^ Garver, John W. (July 2011). Protracted Contest: Sino-Indian Rivalry in the Twentieth Century. University of Washington Press. ISBN 9780295801209
- ^ Juan de Ariztia, ed., Recapilación de leyes, Madrid (1723), lib. vi, tit. VII, ley xvi. This reference can be found at the library of the Estudio Teologico Agustiniano de Valladolid in Spain.
- ^ Felipe II, Ley de Junio 11, 1594 in Recapilación de leyes, lib. vi, tit. VII, ley xvi. The English translation of the law by Emma Helen Blair and James Alexander Robertson can be found in The Philippine Islands (1493–1898), Cleveland: The A.H. Clark Company, 1903, Vol. XVI, pp. 155–156.