貫助次郎
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文元年(1532年) |
死没 | 文禄4年10月9日(1595年11月10日) |
官位 | 兵部丞 |
主君 | 毛利元就→隆元→輝元 |
氏族 | 貫氏 |
兄弟 | 助八、助次郎 |
子 | 新左衛門 |
貫 助次郎(ぬき すけじろう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊前国企救郡貫庄(現在の福岡県北九州市小倉南区貫)の生まれで、毛利氏の家臣。兄は貫助八。
生涯
[編集]天文元年(1532年)、豊前国企救郡貫庄に生まれる。貫氏は豊前国企救郡貫庄を本拠とし、地名から貫氏を称した。
毛利元就に仕えた兄・助八が、永禄4年(1561年)の第四次門司城の戦いにおいて戦死。助八に嗣子がいなかったため、助次郎がその後を継いだ。第四次門司城の戦いの助八の忠勇を賞して、毛利隆元から貫氏への賞恩として豊前国貫庄内に75石と感状を与えられている。
元亀3年(1572年)2月14日、毛利輝元から長門国大津郡日置庄の内に13石余[1]を与えられ、天正6年(1578年)12月20日には兵部丞の官途名を与えられた。また、天正16年(1588年)6月25日には、長門国厚東郡吉見郷内の69石余の地を与えられている。
文禄4年(1595年)10月9日に64歳で死去。子の新左衛門が後を継いだ。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『萩藩閥閲録』巻150「貫半左衛門」