貴穀賤金
貴穀賤金(きこくせんきん)は、江戸時代の経済思想の一つで、金よりも米穀を重んじるべきとする思想である。物価安定のための所謂経世論の一つとして用いられる。
概要
[編集]「貴穀賤金」という語句は、佐藤信淵の「物価余論簽書」に大久保一翁が題したもので、佐藤による造語ではない。佐藤は「貴金賤穀の弊」という語句は用いたが、「賤金貴穀」という語句は用いていない。そして賤金貴穀を唱えたのは佐藤が最初ではない。
最初に「賤金貴穀」を唱えた人物は、熊沢蕃山である。熊沢は、その『集義外書』に
「タカラヲ賤ンズルトテ、ナゲスツルニハアラズ、五穀ヲ第一トシテ、金銀コレヲ助ケ、五穀下ニミチミチテ、上ノ用ニ達スルヲ貨ヲ賤ズトイフナリ」
と言い、徹底した形ではないが、いわゆる賤金貴穀の説を唱えた。
「常世は上下共に穀を賤しんで金を貴ぶなり」
「此故に金銀を第一として穀を心とせざるは甚だ危き心掛なり、其故に三四ヶ国の饑饉なれば、有年の国のより饑饉の国へ廻し遣はす米穀も有べきなれども、もし、二三十ヶ国も一統に饑饉せば廻し遣はす米穀も有べからず。その時に至て、金銀を煎じて飲むとも命は助る間敷なり」
「此所を能く呑込んで、金銀は命を救ふ第二番の物なることを知て米穀を第一、金銀を第二と心得て、平日食糧になるべき物を蓄ふることを勤むべし」
と、明白に貴金賤穀の弊を論じた。
林は飢饉のことを言うが、実際は兵備の点から論じたものであり、佐藤の貴穀賤金論が物価の平準化を目的としているのとは異なる。佐藤は『物価余論』で、
「米を蓄るときは鼠喰或は虫付、ふけ米等の出来て減ずること多きも、金を蓄ふるときは、利息出来て、増すこと多きが故に、年貢も金納を多くし、米を払ひて、金にするを良とするとは、小人の利術にして、君子の所為にあらず、士農米穀を蓄へざるが故に、工商是を卑みて金銀を貴ぶなり、もし士農金銀を卑み、米穀を貴てこれを蓄積するときは、工商は士農に役せられて常に米穀を求むること急なり、然るに士人米を卑みて蓄積せず特に金のみを貴ぶが故に富商の鼻息を仰で憂喜をなすに至り、工商豊かにして、士農困む是れ上下地を易る根原なり、此弊を改むるときは工商常に米穀に困み、士農を仰でその業を励むに至れば、物価は自然に平準なるべし」
と言い、高い米価を維持することを論じている。
井上四明は、『経済十二論』で、貴穀という節を設けて、
「珠玉雖レ宝、而餒不レ可レ食、金銀雖レ財、而凍不レ可レ衣、世皆不レ貴二穀粟一、而貴二金銀珠玉一者何也」
「近世熊伯〔熊沢蕃山を指す〕亦論二貴粟一、伯継多二善政一、国民至レ今便焉貴粟之政、独不レ行二於当時一、可レ歎哉、今欲二富レ士仰一レ商、無レ如下貴二穀粟一而賤中金銀上、欲レ貴二穀粟一、無レ如二以レ穀代一レ幣、而行二於天下一也」
と論じて、熊沢の米遣いの説が実際には行なわれなかったことを嘆いた。
「若二夫銭幣一有レ之不レ飽、有レ之不レ暖、故穀帛穀不レ可二一日無一、而銭幣可二百年無一」
賤金論者は上のような漢学者のみに限らない。たとえば本居宣長は「秘本玉くしげ」で、
「右の子細〔貨幣流通の弊害を指す〕どもをつねづねよく心得居て、総体正物にて取引すべき事は少々不便利はありとも、やはり正物にて取引をして金銀の取引のすぢをばなるべきだけはこれを省き、なほまたさまざまの金銀のやりくりなどをも、なるべきだけは随分これを止め、またなすべきことを金銀にて仕切るやうのすぢはなほ更無用にあらまほしきことなり」
として、貨幣取引に制限を加えるべきであるとした。本居は正物の取引を言い、貴穀論であるとは言いにくいが、賤金論ではある。
おしなべて江戸時代の漢学者・儒学者は、2つの社会制度の矛盾するとは言わないまでも、相両立したがいこと、貨幣経済が物品経済に戻りにくいことをおぼろげには感じていた。