賀茂吉備麻呂
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時代 | 飛鳥時代 - 奈良時代 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 氏:鴨 |
官位 | 従四位下播磨守 |
主君 | 文武天皇→元明天皇→元正天皇 |
氏族 | 賀茂朝臣氏 |
兄弟 | 吉備麻呂 |
子 | 賀茂虫麻呂 |
賀茂 吉備麻呂(かも の きびまろ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。氏は鴨とも記される。姓は朝臣。官位は従四位下・播磨守。
経歴
[編集]文武天皇5年(701年)遣唐中位(判官)に任ぜられ(この時の官位は進大壱(大初位上相当)・刑部判事)、翌大宝2年(702年)渡唐する。慶雲4年(707年)3月に遣唐副使・巨勢邑治らと共に帰国[1]、同年5月に渡唐の功労により綿・麻布・鍬・籾を賜与され[2]、8月には従七位上から一挙に七階昇進して従五位下に叙爵された。
和銅元年(708年)下総守に任ぜられるが、間もなく下総守は佐伯百足に交替し、吉備麻呂は玄蕃頭に転任する。のち左少弁を経て、和銅6年(713年)二階昇進して正五位下となる。
霊亀3年(717年)河内守として地方官に遷ると、養老年間初頭に播磨守、養老3年(719年)には按察使に任ぜられて備前国・美作国・備中国・淡路国の4ヶ国を管轄するなど、元正朝では地方官を歴任し、この間の養老2年(718年)に従四位下に至っている。
官歴
[編集]注記のないものは『続日本紀』による。
- 時期不詳:進大壱(大初位上相当)。刑部判事
- 文武天皇5年(701年) 正月23日:遣唐中位(判官)
- 時期不詳:従七位上
- 慶雲4年(707年) 8月16日:従五位下
- 和銅元年(708年) 3月13日:下総守。3月22日:玄蕃頭
- 和銅2年(709年) 7月25日:見左少弁[3]
- 和銅6年(713年) 4月23日:正五位下(越階)
- 霊亀3年(717年) 4月26日:河内守
- 養老2年(718年) 正月5日:従四位下
- 時期不詳:播磨守
- 養老3年(719年)7月13日:按察使(備前国・美作国・備中国・淡路国)
系譜
[編集]- 父:不詳
- 母:不詳
- 生母不明の子女
- 男子:賀茂小黒麻呂[4]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年。
- 宝賀寿男 編著『古代氏族系譜集成』上中下、古代氏族研究会、1986年。国立国会図書館書誌ID:000001831027。
- 黒板勝美・国史大系編修会 編『尊卑分脈』吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉。