赤松祐尚
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赤松 祐尚(あかまつ すけひさ、?-嘉吉元年9月(1441年10月))は、室町時代中期の武将、守護大名[1]。
略歴
[編集]赤松義則の子として生まれる。 応永35年(1428年)1月、室町幕府の第4代将軍・足利義持が死去して、義持の4人の弟の中から籤引きで、選ぶことになった。 籤引きで決まったのは足利義教であった。 正長2年(1429年)に足利義教が6代将軍に就任した。 兄・満祐と義教は当初良好な関係であったが、義教が守護大名の粛清に圧力をかけたり、弟・義雅の所領を没収して甥の赤松貞村に与えたため、満祐も不満を抱いた。 嘉吉元年(1441年)6月24日、満祐が結城合戦の戦勝お祝いをして、義教や守護大名らを自宅に招き、宴会を開いた。 宴会の最中、障子が勢いよく開かれ、赤松随一の武士・安積行秀が義教の首を跳ねた。 嘉吉の乱後、満祐と教康は討手を差し向けられることはなく、播磨に帰国した。 9月、山名宗全が挙兵して、赤松満祐を自害に追い込んだ。祐尚や、弟・義雅、竜門寺直操、一族ともに自害して果てた。 息子の則尚や、甥・赤松満政は、祐尚の死後も山名宗全に挙兵するが、討伐された。