赤田堅
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時代 | 室町時代後期 |
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生誕 | 不詳(永禄年間) |
死没 | 文禄2年(1593年)3月3日 |
別名 | 隼人正?、信濃守?、賢(賢興?) |
戒名 | 桃林院殿玉雲浄金大居士 |
墓所 | 滋賀県犬上郡八町常禅寺 |
官位 | 隼人正?、信濃守? |
主君 | 丹羽長秀→豊臣秀吉 |
氏族 | 嵯峨源氏渡辺氏流赤田氏 |
父母 | 父:赤田姓(信光) |
兄弟 | 堅、悟(飛騨高山赤田氏の祖)? |
妻 | 決光院(丹羽長秀の娘)? |
子 | 虎之助、勘兵衛(草野谷赤田氏の祖)、正綱? |
赤田 堅(あかだ かたし、生年不詳 - 文禄2年(1593年)3月3日)は、戦国時代の武将である。
人物
[編集]嵯峨源氏渡辺氏流近江赤田氏の最後の当主であり、八町城主四代目。父は赤田姓(信光)で、妻は丹羽長秀の娘決光院とされる。名は「賢」と表記されることもある。
父祖の代のとき、主君であった浅井氏は織田信長によって滅ぼされたため、堅は浪人の身であったが織田方に就き、丹羽長秀の家臣となった。豊臣秀吉の天下統一後は五千石をもって秀吉に召し抱えられるが、仕官後程なくして死去。残された子息四人は皆幼かったため所領は没収され一族離散の憂目となったという。その後、慶長五年に関ヶ原の戦いが起こると堅の子・虎之助は、赤田氏再興を図って西軍に属し力戦したが、合戦は西軍の敗北に終わり再興は頓挫、近江赤田氏は下野することになった[1]。
また、堅や虎之助について飛騨高山赤田氏の赤田源敬[2]はその存在自体を後世の創作かつ架空のものであると主張している[3][4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『多賀町史 上巻』、多賀町史編さん委員会、1992年。
- 武田光弘『赤田一族』、日本家系家紋研究所、1982年。
- 『二本松市史 第5巻』、1900年。
- 藤川助三『豊郷村史』、滋賀県豊郷村史編集委員会、1963年。
関連項目
[編集]- 渡辺了 - 同族とされる。