赤穴久清
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時代 | 室町時代後期 - 戦国時代 |
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生誕 | 文明3年(1471年) |
死没 | 天文22年1月26日(1553年2月18日) |
別名 | 善太郎、安連、郡連、加賀法師 |
官位 | 左京亮、駿河守(受領名) |
主君 | 京極氏、尼子経久 |
氏族 | 赤穴氏 |
父母 | 赤穴幸清 |
子 | 光清、定清、清行、時清 |
赤穴 久清(あかな ひさきよ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。尼子氏の家臣。出雲国赤穴城(瀬戸山城)主。
略歴
[編集]文明3年(1471年)に赤穴幸清(美作守)の子として誕生[1]。
始め京極氏に従っていたが、尼子経久が下克上で出雲を征服して戦国大名になると、尼子氏の家臣として従った。永正12年(1515年)に長男・光清に家督を譲って隠居した。
天文11年(1542年)7月に大内義隆の侵攻(第一次月山富田城の戦い)で光清が戦死すると、孫の盛清に家督を継がせて、自らはその後見人を務め、大内・毛利氏の侵攻から瀬戸山城を守りきり、光清と同じように尼子氏に忠誠を尽くした。
天文22年(1553年)1月26日に死去。享年83。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 久清の孫にも同名の幸清(右京亮)がいる。
参考文献
[編集]- 戦国人名事典(新人物往来社)