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趙元奴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

趙 元奴(ちょう げんど)は、北宋末期の美妓。徽宗の妃嬪。

略歴

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開封の名妓として知られた。李師師などと共に徽宗の寵姫となって、多くの財帛を賞賜され、才人を授けられた。

欽宗が皇帝に即位すると、軍費のため趙元奴の財帛は全て没収された。靖康元年(1126年)、軍が開封を陥落させた。初め、徽宗は青城に監禁され、開封に手紙を書いて衣服・針線・牛羊肉・石鹸など生活用品を要求したが、その際に名指しで才人趙元奴も要求した。以後、趙元奴に関する記録はない。

邵元奴

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金軍の侵攻の際に、金の兵士多数に凌辱されて妊娠した邵元奴という才人がおり、音の一致から、趙元奴と同一人物の可能性も考えられている。邵元奴は、金に到着後は妊婦だったことを考慮され、連行途中で出産した小王婕妤や他の4人の妊娠させられた妃嬪[1]と一緒に、昏徳公(徽宗)のもとに帰された。翌年(金の天会6年)2月19日(1128年4月13日)、邵元奴は女子を産んだ[2]。その後は邵元奴に関する記録もない。

伝記資料

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  • 『靖康稗史箋證』
  • 『三朝北盟会編』
  • 『宣和遺事』

小説

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脚注

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  1. ^ 婉容閻宝瑟新王婕妤・才人周春桃・才人狄金奴
  2. ^ 『靖康稗史箋證』:「十二月二十一日、少帝(先の欽宗、金に「重昏侯」という)生子、殤、韓夫人出。建炎二年正月十七日、少帝生女、鄭夫人出。二月十九日、太上生女、邵才人出。二十七日、太上生子、閻婉容出。三月十二日、太上生子、狄才人出、均殤。」少なくとも出産された3人の男子は夭逝したという(昏徳公と重昏侯が殺したと考えられている)。女子(邵元奴の娘と鄭慶雲の娘)は夭逝したと考えられているが、生存の可能性もある。