趙玉盤
表示
趙 玉盤(ちょう ぎょくばん、1099年[1] - 1141年)は、北宋の徽宗の長女(第一子)。
経歴
[編集]端王趙佶(後の徽宗)の側室鄭氏(後の顕粛皇后)の長女として生まれた。端王が皇帝に即位後、建中靖国元年(1101年)5月29日、徳慶公主の位を授けられた。大観3年(1109年)2月、嘉福公主の位を改授された。
政和3年(1113年)4月15日、嘉福帝姫の位を改授された。政和5年(1115年)4月28日、嘉徳帝姫を再授され、間もなく左衛将軍曾夤に降嫁した。
靖康の変後、金に連行され、宋王完顔宗磐の側室となった。金の天会8年(1130年)6月、玉盤は次婦(妾妻)の位を授けられた。
金の天眷2年(1139年)7月、完顔宗磐が処刑された。その後、完顔希尹は玉盤を熙宗に献じた。天眷3年12月(1141年1月)、玉盤は死去した。夫人の位を追贈された。
子女
[編集]いずれも曾夤との娘。
逸話
[編集]- 完顔撻撻(玉盤の三女の夫)は、勇猛だが横暴であった。天眷2年(1139年)7月、熙宗に処刑命令を下され、撻撻は完顔宗磐を自ら手にかけて殺した。その後、宗磐の未亡人(玉盤?)を犯した。完顔希尹は家に帰り、次婦の李舜英(前夫は宋の和王趙栻)は文句を言った。希尹は怒り、撻撻は責罰され、玉盤を熙宗に献じた。
伝記資料
[編集]- 『靖康稗史箋證』
- 『宋会要輯稿』
- 『皇長女特封徳慶公主制』
- 『嘉福帝姫特改封嘉徳帝姫制』