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趙良弼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

趙 良弼(ちょう りょうひつ、1217年 - 1286年)は、女真人官僚・政治家。は輔之。

概要

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父は趙愨、母は女真人名門出身の蒲察氏で、その次男。本姓は朮要甲で、その一族はに仕え、山本光朗によれば現代の極東ロシア沿海地方ウスリースク近辺に居住していたと考察されている。曾祖父の趙祚は金の鎮国大将軍で、1142年からの猛安・謀克の華北への集団移住の前後に、趙州賛皇県(現在の河北省石家荘市賛皇県)に移住した。漢人住民に「朮要甲(Chu yao chia)」を似た発音の「趙家(Zhao jia)」と聞き間違えられたことから、趙姓を名乗るようになったとされる。

金の対モンゴル抵抗戦では、1226年から1232年の間に趙良弼の父の趙愨・兄の趙良貴・甥の趙讜・従兄の趙良材の4人が戦死し、戦火を避けて母と共に放浪した。金の滅亡後、13世紀のモンゴル帝国で唯一行われた1238年の選考(戊戌選試)に及第し、趙州教授となる。1251年にはクビライの幕下へ推挙された。邢州安撫司の幕長として業績を挙げ、雲南・大理遠征の頃には戸数が倍増したという。

クビライの一時的失脚の時期には、廉希憲と商挺の下で陝西宣撫司の参議となる。1260年、クビライに即位を勧め、再び陝西四川宣撫司の参議となる。渾都海の反乱では、汪惟正、劉黒馬と協議の上で関係者を処刑した。廉希憲と商挺はクビライの許可もなく処断したことを恐れ、謝罪の使者を出したが、趙良弼は使者に「全ての責任は自分にある」との書状を渡し、クビライはこの件での追及はしなかった。廉希憲と商挺が謀反を企んだと虚偽の告訴を受けた時には、その証人として告発者から指名されたが、激怒して恫喝するクビライに対してあくまでも2人の忠節を訴え疑念を晴らし、告発者は処刑された。

1270年高麗に置かれた屯田の経略使となり、日本への服属を命じる使節が失敗していることに対して、自らが使節となることをクビライに請い、それにあたり秘書監に任命された。この時、戦死した父兄4人の記念碑を建てることを願って許可されている。1271年には日本へ5度目の使節として大宰府へ来訪。4か月ほど滞在の後、大宰府からの使節とともに帰国した。

1272年、使節として再び日本に来訪し、1年ほど滞在の後帰国した。クビライへ日本の国情を詳細に報告し、更に「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つことなきが良いでしょう」と日本侵攻に反対した。

1274年に同僉書枢密院事となる。バヤン南宋攻略に際して助言をし、その通りに戦況が進んだ。宋滅亡後の江南人の人材育成と採用も進言している。

1282年に病で懐孟路(現在の河南省焦作市)に隠居し、1286年に死去した。死後に韓国公・推忠翊運功臣・太保・儀同三司を追封贈され、諡は文正。

子の趙訓は、陝西平章政事に至った。

伝記資料

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  • 元史』巻159 列伝第46「趙良弼伝」
  • 新元史』巻158 列伝第55「趙良弼伝」

参考文献

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外部リンク

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  • 山本光朗「女真族の趙良弼一族の漢化(中国化)について」『北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編』第62巻第2号、北海道教育大学、2012年2月、59-73頁、doi:10.32150/00006036ISSN 1344-2562CRID 1390857777803515648