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足代弘訓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
足代 弘訓
人物情報
別名 :寛居
通称:式部、権太夫
生誕 天明4年11月26日 (1785-01-06) 1785年1月6日
日本の旗 日本伊勢国
死没 安政3年11月5日 (1856-12-02) 1856年12月2日(71歳没))
日本の旗 日本・伊勢国
国籍 日本の旗 日本
両親 父:足代弘早
学問
時代 江戸時代後期
学派 鈴屋派
研究分野 国学
影響を受けた人物 荒木田久老
本居春庭
本居大平
影響を与えた人物 佐々木弘綱
正住弘美
志田義貫
生川正香
白井重固
渡辺政香など
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伊勢市駅の北口改札付近にある足代弘訓の墓所(三重県伊勢市、2016年11月に撮影)

足代 弘訓(あじろ ひろのり、天明4年11月26日1785年1月6日) - 安政3年11月5日1856年12月2日))は、江戸時代後期の国学者歌人寛居(ゆたい)。通称は式部・権太夫。伊勢外宮祠官足代弘早[1]伊勢国の人。

生涯

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伊勢内宮の荒木田久老国学を学び、久老の没後は本居春庭本居大平の門に入った。伊勢国山田の鈴屋の師道者とし活躍した。京阪江戸に出て多くの文人と交流している。大塩平八郎とも親交があったことから、大塩平八郎の乱において関与を疑われて取り調べを受けている[2]。神宮内では祠官の堕落に対して弊風を粛清する運動を展開、天保の大飢饉に際しては窮民救済の運動を行った。幕末期には、多くの志士と交流し、一方で弟子の教育にあたった。

門下に正住弘美志田義貫生川正香白井重固渡辺政香らがいる。

作歌

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 36頁。
  2. ^ ロバート・キャンベル「足代弘訓」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8