近江丸 (初代)
近江丸(おうみまる)は共同運輸会社、日本郵船の鉄製汽船[1]。
「山城丸」の姉妹船で、2隻の船名はもともと「武蔵丸」、「大和丸」の予定であったが、海軍が「大和」と「武蔵」という名の艦を建造していたことから「山城丸」と「近江丸」に変更となった[2]。
2473総トン、速力13ノット[1]。
船歴
[編集]イギリスのアームストロング・ミッチェル社で新造[1]。1884年9月20日に横浜に到着した[3]。
1884年12月の甲申政変では御用船として輸送任務に従事した[4]。
1885年9月に共同運輸は郵便汽船三菱と合併して日本郵船となり、「近江丸」も日本郵船に継承された[5]。
「近江丸」は2度ハワイへの移民輸送をおこなった[6]。1889年3月3日ハワイ到着の回では957人、1891年3月30日到着の回では1081人の移民を運んだ[6]。
日清戦争では陸軍と海軍に徴傭された[7]。期間は陸軍が1894年6月5日から7月20日、海軍が1894年7月11日から1896年1月25日であった[8]。海軍には巡洋艦代用として傭船された[2]。雇用費は17万8557円[9]。兵装は80年式30口径17cm克砲2、旧式7,6cm安式砲4、4連装ノルデンフェルト砲6、小銃115、拳銃44、舶刀44であった[9]。「近江丸」の主任務は水雷艇の母艦任務で、他に艦隊根拠地の水雷敷設任務などもあった[10]。「近江丸」は台湾・澎湖諸島占領の際には第四水雷艇隊の母艦を務めた[11]。次いで艦隊の福建省沿岸巡航に水雷艇3隻を伴って参加[12]。その後、西海艦隊に編入された[12]。1895年7月20日には「近江丸」でコレラが発生している[12]。
1896年10月に開設された横浜・メルボルン航路に「近江丸」は就航している[13]。
義和団事件の際には1901年6月23日から7月25日まで陸軍に徴傭された[14]。
日露戦争では海軍に1904年1月6日から1905年2月23日まで、陸軍に1905年2月24日から1906年3月22日まで徴傭された[15]。海軍では石炭、清水、軍需品等を艦隊へ供給する運送船として使用された[16]。
1910年5月26日、解体のため大阪の山科礼三に売却[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d 木津重俊(編) 1984, p. 51.
- ^ a b 石橋孝夫 2024, p. 15.
- ^ 日本郵船 1935, pp. 42–43.
- ^ 日本郵船 1935, pp. 43–44.
- ^ 木津重俊(編) 1984, p. 17、51.
- ^ a b 日本郵船 1935, pp. 98–99.
- ^ 日本郵船 1935, p. 127、130.
- ^ 日本郵船 1935, p. 127、130. 期間については出典通りであるが、陸軍と海軍で重複があり、誤記の可能性もある。
- ^ a b 石橋孝夫 2024, p. 17.
- ^ 石橋孝夫 2024, pp. 15-16、24-25.
- ^ 石橋孝夫 2024, p. 26.
- ^ a b c 石橋孝夫 2024, p. 27.
- ^ 日本郵船 1935, p. 151.
- ^ 日本郵船 1935, p. 184.
- ^ 日本郵船 1935, p. 197、199、204.
- ^ 日本郵船 1935, p. 201.
参考文献
[編集]- 木津重俊 編『日本郵船船舶100年史 世界の艦船・別冊』海人社、1984年。ISBN 4-905551-19-6。
- 石橋孝夫『日本海軍仮装巡洋艦入門』潮書房光人新社〈光人社NF文庫〉、2024年5月27日。ISBN 978-4-7698-3361-1。
- 日本郵船 編『日本郵船株式会社五十年史』日本郵船、1935年。