迷宮 (同人サークル)
迷宮'78 | |
前身 |
構雄会 CPS |
---|---|
設立 | 1975年(昭和50年) |
設立者 |
亜庭じゅん 原田央男 米沢嘉博 高宮成河 式城京太郎 |
設立地 | 東京都・新宿カトレア |
種類 |
漫画評論系同人サークル 運動体(ムーブメント) |
目的 | 漫画状況の変革に向け、誰もが平等に参加でき、かつ漫画の持つあらゆる可能性が十全に展開される場を構築すること[1]。その一手段として漫画批評誌『漫画新批評大系』を刊行すると共に、同人誌即売会「コミックマーケット」を運営し、同人誌の流通機構を確立させ、書き手と読み手の作品を媒介とした相互交流(コミュニケーション)を実現することで、新しい漫画の創造に向けた「運動」を行うこと[2]。 |
所有者 | 亜庭じゅん→原田央男 |
分離 | コミックマーケット準備会 |
迷宮(めいきゅう、ラビリンス)は、1975年に結成された日本の漫画批評集団である。漫画批評誌『漫画新批評大系』を刊行するとともに、世界最大級の同人誌即売会『コミックマーケット』[3]や創作同人誌即売会『MGM(Manga Gallery & Market)』の創設母体となった。
現在はコミックマーケットからは分離している。ただし、創業者特権でサークル参加での抽選を永久免除されている(帳簿上は、コミックマーケット創設時に迷宮からの借金でまかない、それが現在でも残っている代償ということになっている)[4]。
歴史
[編集]1975年4月、関西系の批評集団「構雄会」(同人誌名『漫画ジャーナル』)と関東にあった「CPS(コミック・プランニング・サービス)」(同人誌名『いちゃもん』)の中心メンバーが合流して新宿のマンモス喫茶店『カトレア』でグループを結成したのが全ての始まりである[5][6]。
結成メンバーは亜庭じゅん、原田央男(霜月たかなか)、米沢嘉博、高宮成河、式城京太郎の5人。亜庭と高宮が『漫画ジャーナル』、原田と式城が『いちゃもん』のメンバーであり、米沢は新グループ発足に当たって原田から勧誘されてメンバーとなった。この時点で主要メンバーの大半は大学を卒業して新社会人になっており、今後もファン活動を続けるかという岐路にあったが、新グループを結成して「延長戦」を戦うことを選択した。「延長戦」は原田がそれまでの活動で培ってきた人脈をフィールドとして始められ、亜庭がゲームを主導する形になっていった。
また全員がCOM世代であり、『COM』の自壊を目にしながら不満を口にするだけだった自分たちへの深刻な反省から自らを「運動体」と規定し[7]、まんがファンとしての「自分たちの場所」を作り出すことを目標として、漫画批評誌の発行、および新たな形でのイベント創出を2本柱とした。ちなみに亜庭じゅんが漫画批評誌『漫画新批評大系』の編集責任者、原田央男が同人誌即売会『コミックマーケット』の代表、米沢嘉博は両者のサポートという体制であった。後年原田が代表を辞任した後は、米沢がコミックマーケットの二代目代表となり、亜庭は創作同人誌即売会『MGM』を主催した[8]。全活動を一貫していたのは一介のまんがファンでしかないアマチュアに一体何ができるのかという意識だった[7][9]。
漫画大会批判
[編集]迷宮の活動は先ず言葉を生み出す場所を作ることから始まった。漫画批評誌は亜庭じゅんを主筆とし、山上たつひこの『喜劇新思想大系』に倣い、誌名を『漫画新批評大系』とした。創刊準備号は日本SF大会を模した日本漫画大会に合わせて発行される手はずとなっていた。
ところが、『迷宮』同人の知人女性[10]が、漫画大会を批判したとの理由で参加を拒否される事件が起こった。批判内容は、漫画大会の警備員に「態度がおーへい」な人物がいたこと、そして「内容がつまらない」と評したことだったが、漫画大会の運営はこの批判に「開催目的にそぐわない意識を持つ者の参加は認められない」「委員の血と汗と涙に対する重大な屈辱」と主張した。
迷宮はこの事件を重く見て[11]、「漫画大会を告発する会」を結成し[12]、大会事務局に説明を求めると共に、漫画大会の内情を告発するレポートを発行した。さらに、抗議に対して黙殺を続ける漫画大会に見切りを付け、主催者を含めた全員が平等であることを原則とする新たなイベントの創出を急務と認識させた[13][14]。
漫画新批評大系の刊行
[編集]『漫画新批評大系』創刊準備号は、自らを「運動体」とする亜庭の『マニア運動体論』をマニフェストとしてメインに据え、原田が萩尾望都研究会『モトのトモ』の主宰であったこともあり、山上と並んで同人に評価の高かった萩尾の『ポーの一族』のパロディ『ポルの一族』も掲載された。それは、パロディもまんがへの有効な批評の一つの形態だとする意識と共に、読者に受け入れられるために内容の硬さを冗談で緩和する目的だったが、「まんがで遊ぶ」ことの提示でもあった。この真面目と冗談の入り交じった誌風は最後まで維持されることになったが、同様の気分はコミックマーケットにも持ち込まれることになった[15]。
青焼きコピーで発行された創刊準備号は漫画大会で約100部が完売し、さらに100人以上の予約購読者を得た[16]。
批評誌を出すに当たって、批評の方法として、先行する世代の批評に見られた既存の価値や概念にまんがを沿わせる手法を排して、「まんがをまんがとして語る」こととし、従来の言葉に頼らない自前の言葉を作っていくことを方針とした[17]。漫画批評誌の主筆として亜庭じゅんは質量ともに並外れた筆力を示すと同時に編集者としての構想力を発揮し『漫画新批評大系』刊行の持続的な原動力となった。夏の創刊準備号に続いて秋の創刊号はほとんど全てのページを一人で埋め、周囲を驚かせたが、グループを結成したその年の冬に第3号まで刊行する爆発的な生産力を示し、更に周囲を驚嘆させた。
亜庭によって書かれた評論自体も他を圧倒した。まんがの歴史的な流れのなかでの作家の意味を示し、その作家の個々のまんがを繊細に読み解きながら作家の作品史を辿ることで浮かび上がる作家の微妙な変化を掬い上げ、作家と作品が身にまとう「スタイル」[18]と、それを読んでいる自分との間で揺れ動くまんがの意識を捉えようとした。意味論にも構造論にも偏らず、まんがの「スタイル」に身をさらす言葉は、読む者にとってまんがを新しく別な目によって再発見する快感を伴った「体験」だった。まんがを読み続けてきた蓄積を基にして日々目の前に現われる「いま」のまんがに寄り添うことで生まれる思考と言葉は、「まんがとはこんな風に読めるのだ」という個人的な切実さを伴ったレポートであり、「まんがとは読むに値するものだ」という読者へのメッセージでもあった。確信を伴ったこのメッセージは、変わっていくまんがを前にして大人の入り口で立ち止まっている読者に強い共感をもって迎えられ、批評誌としての『漫画新批評大系』への支持と信頼に繋がっていった[19][20][21][22]。
亜庭じゅんを中心とした迷宮同人達の言葉は常に「まんがを読む自分とは」という問いを含んでいた[23]。それは後に「ぼくら語り」という揶揄を交えた評語により「世代的自閉」と「他の排除」として批判されることになるが、これらの批判に亜庭じゅんは既に「『ぼくら』はCOM世代でも全共闘世代でもない。自分がまんがにとらわれていると自覚したものたちが、同じくとらわれていると自覚したものたちを予感する時たちあらわれる幻のことだ」[24]と簡潔に答えてしまっている。更には「ニューコミック」を論じて、「戦後まんがとは、史上初めて、『少年・少女』を対象として成立した、世界性を持ったジャンルだった。その意味は世界史的なものかもしれない」[25]と30年以上の時を隔て、クールジャパンと言われるものを突き抜けてその先にまで届く認識を示している。
亜庭の評論は同人たちに影響を与えるとともに対抗心を抱かせ、米沢は「亜庭じゅん」をもじった「阿島俊」をペンネームとし、原田は後年「アニメ・ジュン」をペンネームとした[26]。亜庭自身もペンネームを使い分け、主に少女まんがを扱う場合は「亜庭じゅん」を、女性の視点から少女マンガを見る場合は「かがみばらひとみ」を、少女まんが以外を批評する場合は「葉月了」を使った。
『漫画新批評大系』の刊行は3期に分かれる。
快調な滑り出しを見せた『漫画新批評大系』の第1期[27]は亜庭の「マニア運動体論」[28]を連載しファン活動の実体を個別に評価・批判しつつ自らの位置の測定と考察を行ない「運動」の今後への展望を探った。並行して萩尾望都を中心とした24年組による少女まんがの変貌を積極的に評価した。第1期の終わりに刊行されたCOM特集号はとりわけ力のこもった号となった[29][30]。
第2期[31]では「戦後少女マンガの流れ」[32]を連載し歴史的なパースペクティブのなかで現在の少女まんがを捉えることを試み、個々の作家への評論と合わせて当時少女だけに読まれるものという意識が主流だった少女まんがへの認識を変えることに大きく寄与した。通巻10号では24年組が少女まんがに残した意味とそれを置き去りにしていこうとする少女まんがの現在とを取りあげて衝迫した号となった[33]。少女まんが以外でも「三流劇画」という言葉を最初に使用し、その特集を迷宮同人の川本耕次が組むことで三流劇画ブームの起点となった[34]。
第3期[35]ではCOM以後のまんがの多様性を「ニューコミック」という概念で提示し、「ニューウェーブ」という言葉の更にその先を見ようとした[36]。他にも当時の新雑誌の刊行ブームのなかで各編集部へのインタビュー特集や、まんがとその映像化との関係について特集を組んだ。
亜庭以外の同人も精力的に評論を掲載し誌面の充実をみたが、同人以外にも外部に寄稿を依頼し、評論では村上知彦、有川優、中島梓、高取英、小谷哲、川本耕次、竹内オサム、コラムでは飯田耕一郎、増山法恵、まんが実作では高野文子、柴門ふみ、たむろ未知、吉田あかりが寄稿した。編集者の途に進んだ迷宮周辺のサポーターとして川本耕次(Peke/少女アリス)、佐川俊彦(JUNE)、中原研一(コミックアゲイン)、橋本高明(劇画アリス)、赤田祐一(Quick Japan/Spectator)等がいる。また大塚英志も「大塚エージ」というペンネームで読者投稿を行なっている。『漫画新批評大系』本誌以外の叢書として『萩尾望都に愛をこめて』、『ときめき』(千明初美作品集)、『シングル・ピジョン』(さべあのま作品集)を刊行した。
『漫画新批評大系』は時々のまんがの情勢をムーブメントとして捉えることを特徴とした。ファン活動も頻繁に紙面に取りあげ、コミックマーケットの開催と絡みながら、COMの総括、同人誌特集や同人誌作家の作品掲載を行いファン活動の活発化と意義の形成に力を尽くした。部数は最盛期で2000部近くに達した。当時としては破格の部数であった。
1981年のvol.15を最後に『漫画新批評大系』の刊行は中断したが、7年間の刊行期間を通じてまんがの「いま」を言葉で提示することにより、読者にとって単なる批評誌であることを越えてまんがのジャーナリズムを形成する拠点であり続けた[37]。
コミックマーケットの開始
[編集]『漫画新批評大系』創刊準備号の漫画大会での成功や、これまでに培った人脈をテコに、迷宮は新たなイベントの実現に動いた。これがコミックマーケットである。同人誌即売を一つのイベントとして開催するのは、日本で初めての試みだった[38][39]。コミックマーケットの主催は参加するサークルが構成する「コミックマーケット準備委員会」ということになってはいたが、実質は迷宮そのものだった[40][41]。
全国の漫画研究会に参加を求めるダイレクトメールを送り、友人知人にも呼びかけ、ようやく32サークルの参加を確保。1975年12月21日、原田央男を代表として第1回のコミックマーケットが開催された[42][43]。原田はささやかに始まったコミックマーケットの継続に意を砕き、1979年のC12までの代表を務めコミックマーケットの基礎固めを行った。原田が代表であった期間は規模が小さいこともあり、マーケットという形はとりながらも一面では高揚するコミューンの気分も溢れていた[44][45][46]。原田はコミックマーケットはあくまでサークルの自由な総意として開催されるという原則を崩さなかった[47]。サークルを「企画参加者」、一般入場者を「一般参加者」と呼び、それにサークルの総意を代表する主催者及びボランティアスタッフを加えて、コミックマーケット全体が立場を超えた平等な「参加者」で構成されるとした、コミックマーケットのデフォルト意識である全てが参加者だとする「総参加者主義」は原田時代に作られた。事前集会を行い、会場の準備や撤収は参加者が自然にボランティア参加し、閉会時にはサークルとともに反省会を開き、毎回レポートを発行、経費も公開した。自主性を重んじた「自分たちの場所」として参加サークルの一体感の維持を計ったが、次第に二次創作とファンクラブの無際限な増加による規模の拡大に違和感を覚え、周囲からの慰留の声を振り切って代表を辞任するに至った[48][49][50]。ただし原田時代に固められた、総参加者主義、非営利、ボランティアスタッフ、参加サークルの無選別、事前集会、毎回のレポートといったコミックマーケットの基本フォーマットはそのまま次代に引き継がれていった。
米沢コミケットと亜庭MGM
[編集]原田が代表を辞任した直後のC13は代表不在のまま開催された[51][52]。C14から二代目の代表には米沢嘉博が就任し、2006年に死没するまで一貫して代表を務めた。米沢が新代表に就任する前後から拡大する規模に対して運営の改善が追いつかず、同人誌の即売会という機能そのものが危うくなっていた[53][54]。亜庭じゅんは対立が決定的になる前に方針を示すことを米沢に促していたが、米沢は積極的な収拾を行わず曖昧な態度に終始した[55][56]。運営の限界と内部対立を抱えながらコミックマーケットは何時崩壊してもおかしくないバランスのなかでかろうじて維持されていた[57][58][59][60][61]。1980年には、亜庭じゅんが「代表」という開催者を置かない形で、創作漫画専門の同人誌即売会「まんが・ミニ・マーケット」をコミックマーケットの補完を目的として開催を始めたが[62][63][64]、コミックマーケットとまんが・ミニ・マーケットとが補完関係を保っていた時期は短かった。それはコミックマーケットが川崎市民プラザで開催されていた1980年春から1981年春にかけての一年間にすぎなかった。1981年夏から秋にかけて規制強化派によるクーデター騒動が起った[65]。米沢は一時は引退まで考えたが代表の継続を選択した[66]。結局コミックマーケットは二つに分裂し、規制強化派はコミックマーケットから分かれることになった。亜庭じゅんは、以前から準備会内部で顕在化していた不満を放置することで分裂騒動を起こし、結果的にせよ「昨日までの仲間を切り捨てる」ことになった米沢の行動を厳しく批判した[67]。その後、米沢からの反論は遂になかった。
会場を晴海に移した米沢は1982年夏のC21で「コミケットマニュアル」を作り、「準備会」を運営組織としてサークルから分離し独立した主催主体とした。原田時代の総参加者主義を「理念」として掲げ、サークルから切り離された主催主体として参加者の一員となった「準備会」は、開催の責任は負いつつコミケットの生み出すものについては関知しない立場を明確にした。それは迷宮が掲げた「運動体」であることの放棄でもあった[68]。この時点で米沢の迷宮の一員としての立場とコミケット代表という立場も分離され、迷宮はコミケットの運営から消えることになった[69]。晴海に落ち着いてからの米沢コミケットは、まんが以外の表現に関わるものも全てを受け入れながら急激に膨張を重ね、次第に「おたくの祭り」の色を濃くしていった[70][71][72]。
さらに1984年には法人組織の「株式会社コミケット」(のちに有限会社、特例有限会社に)を設立し、「準備会」とは別に法人組織を設立することで原田時代の「非営利」もまた曖昧なものになった[73][74][75][76]。
まんが・ミニ・マーケットは1981年にMGMと改称、82年春のMGM8からコミックマーケットと入れ替わるように都内の産業会館から川崎市民プラザに会場を移した[77]。晴海でのコミックマーケットのなし崩しの変質に対応し、補完の立場を離れた一個の独立した即売会として迷宮主催で開催を続けた。原田時代の「運動体としての迷宮」はコミケットから消え、MGMが単独で引き受ける形になった[78][79][68]。膨張し続けるコミックマーケットは「マーケット」であることに重点を置かざるを得なくなり、フラットな市場を維持し続けることが至上課題になっていった。参加の希望をすべて受け入れることの結果として、現状を追認しながら市場としてどこまで拡大していけるかというコミックマーケットの路線に対して、MGMは即売会の主体が「創作同人誌」であることに重点を置き、代表という立場の主催者を置かず、「即売会は単なるイベントではなく、作品が生まれる場であり、共に伸びていく場だ」という認識を基本とした。そのための「お祭り」ではない創作のための「日常的」な場所として隔月の開催を実践した。コミックマーケットの「プロもアマも」という姿勢に対して、「プロでもなくアマでもなく」第三の場としての即売会を目標とした[80][81]。亜庭じゅんも「MGMスタッフ」を名のり、スタッフの一員である立場をとり続けた[82][83]。
MGM開催毎に発行するMGM新聞[84]とともに、お茶の水駅前の喫茶『丘』で定期的に開くMGM集会を、スタッフ、サークル間のコミュニケーションの場とした。当時各地に生まれていた即売会とも連絡を取り合い、特に名古屋の『グループ・ドガ[85]』が主宰する『コミック・カーニバル(略称コミカ)』、松山の『まんがせえる(略称せえる)[86]』との連携を重視した[87][88][89]。『コミカ』はMGMよりもなお厳密に「創作」にこだわり、『まんがせえる』はコミケットやMGMから既に失われてしまった「みんなで作る即売会」を実践していた。お互いの即売会に自分の即売会に参加した同人誌を持ち込み紹介しあうことで即売会と同人誌の濃度と質の向上を目指した[90][91]。それらの即売会が相次いで終了した後も[92][93]、規模の拡大に足をとられることを拒否し、単純に市場であることよりも同人誌がやりとりされる場としてのありかたを模索しつつ開催を続けた。即売会と同人誌のメディアとしての可能性とコミュニケーションの方法を様々な試みで実験し、「フォー・レディース」(運営・参加サークル女性限定)、「アダルト・オンリー」(一定年齢以上のサークルのみ)、「イン・パーソン」(個人誌・二人誌限定)、「ザ・ギャラリー」(原画展示併設が必要)、「オフセット・オフ」(オフセット印刷の参加不可)、「ア・ロング・ロング・ストーリー」(50枚以上の長編限定)、「とんでもねえ本大会」(形態や内容がとんでもない本)を、通常のMGM開催の間を縫って特別版として企画・開催し、主催する側とサークルとの間に信頼さえあれば、即売会の形はどのようにでも変化できることをアピールしながら参加サークルに刺激を与え続けた。
80年代後半から90年代にかけて、コミックマーケットが晴海で起こした同人誌バブル[94]にMGMも無縁ではなかった。会場の容量を超えた参加希望を捌ききれず、長机一つに3サークルを割り当てる荒技を使っても会場から溢れるサークルの参加を断るケースが相次ぐ事態を迎えたが、規模を拡大することで起こる即売会の変質を拒み、MGMは会場を移そうとはせず頑強にそこに留まり続けた[95]。会場を移しながら膨張を続ける米沢コミケットに対して、頑なに一点に留まろうとした亜庭MGMは鮮やかな対照を見せたが、それは同人誌バブルに押し流されない「定点」であろうとする強い意志だった[96]。
その後、MGMの模倣から始まったと自称[97][98]するCOMITIAが「日本最大の創作同人誌即売会」を標榜し、MGMから溢れるサークルを吸収しつつ徐々に参加サークルを増やしながら、コミケットの後を追って規模を拡大していく路線を鮮明にしたが[99]、それに対してもMGMは動くことのない定点に留まることを選んだ。
やがて同人誌バブルは抵抗し続けるMGMだけをその場に残して他に移り、MGMは同人誌の波と無縁の場所として存続した。波が去ったあとのMGMには固いコアだけが残り自律的な変化を起こす芽の多くは波とともに流されていった。バブルは常態となり、常態となることによる同人誌そのものの変容と即売会への意識が溶解していく過程のなかで[100]、次第にMGMは縮小の道を辿った。縮小の道を辿りつつも参加サークルとともに粘り強く開催を続けた。その後、即売会自体が全体としてゆるやかな創作サークルであるような形態を取るに至り、即売会のありかたの一方の典型を示すことになった。コミックマーケットに次ぐ歴史を持ち、その歴史を通じて創作系同人誌にとって、コミックマーケットの喧噪とは違った穏やかな「顔の見える」即売会として長く貴重な存在だった[101]。会場としていた川崎市中小企業婦人会館が閉館となり、開催は2007年3月の97回を最後に中断した[102]。
一方のコミックマーケットは規模の拡大の限界に行き着き、身動きできない状態の中で、参加希望するサークルを抽選で振り分け、更には表現の自主規制を行なわざるを得ない事態を迎えている。両方の実験はそれぞれ明快な答えが出せるものではないが、同人誌即売会のあり方をそれぞれの方法で模索することは「運動体」としての迷宮の必然だった[103][104][105][106][107][108]。
原田コミケットから米沢コミケットへと連続してコミケットは続いたように見えるが、実際は代表の交替による断絶があった。原田の辞任後に開かれたC13の代表不在はその断絶を示している。この断絶を経て原田コミケットは米沢コミケットと亜庭MGMの二つの即売会に枝分かれした。それは枝分かれすることによって原田の時代に胚胎した矛盾を分解し、それぞれが一方を引き受けるための「迷宮のケジメ」[109]としての結果だった。米沢コミケットは1980年から2006年、亜庭MGMは1980年から2007年、誤差はあるもののほとんどピタリと重なるこの期間の間、グループとしての実体を失った『迷宮』は二つの即売会が作り出す距離の間を浮遊する見えない「潜在意識」として存在し続けた。この潜在意識は同人誌即売会の意味を問い続け、結果として二つの即売会は、二十数年の間お互いの周囲を巡る連星軌道を描き続けることになった[110]。
その後
[編集]迷宮のグループとしての実質的な活動は『漫画新批評大系』の発行とコミックマーケットの開催が両輪として噛み合っていた1975年から1980年までの期間と見ることができる[112]。その6年間の活動で、まんがを語る言葉を作り出しながらCOM以後のまんがの流れを集約し、同人誌即売会というまんがファンのメディアを生み出すことにより「COM後」のファン活動の内容を決定的に変え、それを80年代以後に繋いだ。全員が全速力で走り続けた「奇跡の6年間」だった。
原田央男は、コミックマーケット初代代表の辞任後、アニメ評論家に転身してまんがとの関わりを絶ち、亜庭じゅんは『漫画新批評大系』の休刊後、コミックマーケットと距離を置きながらMGMの開催を続けた。高宮成河は、関西の独立系出版社・株式会社チャンネルゼロ[113]から村上知彦、峯正澄らと『季刊まんがゴールデンスーパーデラックス・漫金超』を5号まで刊行し以後沈黙を守った。米沢嘉博は、漫画評論家としての活動とともに、コミックマーケットの代表を死の直前まで務めた。コミックマーケットの開催ごとに用意される『迷宮』のスペースは、若くて貧乏で無名だった彼らの「運動」の小さな記念碑でもある。
2006年10月1日に米沢嘉博が死去し、通夜には原田央男が駆けつけた。四半世紀を越す時間を隔てた無言の再会となった。翌日の葬儀では亜庭じゅんが米沢の棺を担いだ。既に予定されていた5ヶ月後のMGM97以後、亜庭じゅんによってMGMが開催されることはなかった。そして、コミックマーケットは市川孝一、筆谷芳行、安田かほるによる共同代表制に移行した。
2008年12月、霜月たかなか(原田央男)による『コミックマーケット創世記』が上梓された。米沢没後に無責任な放言が跋扈することに危惧を持ち正確な記録を残すことを目的とした。記録の正確を期すために当時の関係者一同を招いた「記録集会」を2007年から2008年にかけて本郷の更新館にて4回に渡って開いた。4回ともに徹夜の集会となった。「記録集会」にはオブザーバーとしてCOMの元編集者も招かれた。
米沢の没後4年を経た2010年10月23日に、米沢嘉博記念図書館にて「コミックマーケットの源流」展の関連イベントとして行われたトークショー「コミケ誕生打ち明け話」に亜庭じゅん、原田央男、高宮成河の三人が出席した[114][115]。迷宮として公開の場に顔を揃えるのは30年ぶりのことだった。会場には三人に並んで米沢の席も設けられていた。世話人を務めた森川嘉一郎はTwitterで「ほとんど宿命のようなトークショー」と記した[116][117][118][119]。
トークショーから3ヶ月後の2011年1月21日には亜庭じゅんが鬼籍に入った。没後3ヶ月が経った4月24日、亜庭じゅんを偲ぶ会が、迷宮'11と亜庭夫人との共催で、東京・山の上ホテルで開かれ、多くの友人知己が集まって故人を偲んだ。会の前半の受付は米沢の妻・英子と安田かほるが務めた。
2012年1月22日に、板橋産業連合会館[120]に会場を移し、亜庭じゅんと共にMGMを支えてきた長谷川秀樹と往時のスタッフによってMGM98が開催された[121]。
亜庭じゅん没後一周忌を期して高宮成河・原田央男編集による亜庭じゅん遺稿集・『亜庭じゅん大全』が、30年ぶりの『漫画新批評大系』vol.16として刊行された。表紙カバーを亜庭が「一番好きなまんが家」と言っていた樹村みのりのイラストが飾り、村上知彦と原田央男がそれぞれに亜庭じゅんの「言葉」と「同人誌即売会」への評言を寄せた遺稿集はA5判2段組み・800ページを越える大冊となった。2011年冬のコミケットで部数限定で先行発売したが、2012年1月22日、一周忌の翌日のMGM98が正式の発売日とされた[122][123]。
2013年1月27日、100回目のMGMが開催された。その事後集会で「迷宮主催とする即売会はこれを最後とする」と宣言され、亜庭じゅんのMGMは完結することになった。続いてMGMの古くからのスタッフである壬生頼之によって新しい同人誌即売会をMGM2.0として起動することが参加サークルの賛同によって決定した。MGM100のカタログには長谷川英樹、亜庭夫人の挨拶と共に、亜庭じゅんのコミケット17での発言の採録、高宮成河と原田央男の原稿も掲載され、亜庭MGMの最後を締めくくるカタログとなった[124][125]。
迷宮の手を離れた「MGM2.0」は、初回となるMGM2.01[126]が2013年9月8日に開催され、2022年5月現在も存続している。
補遺
[編集]- 実際の活動では、同人誌の発行年下2桁をサークル名の末尾に付けている。たとえば、1975年の第4回日本漫画大会に参加した時は「迷宮'75」。しかし、2009年のC77では「迷宮109 (メイキュウイチマルキュウ)」という誤った名で参加する椿事が有った。
- 初期のコミックマーケットでは、迷宮で描かれたキャラクターがそのままマスコットの扱いを受けていた。しかし、運営の分離と共に使われなくなった。
- 迷宮の同人は、複数のペンネームを使い分けていた。これは、いかにも大人数が寄稿しているように見せかけるためであった。
- 「コミックマーケット準備委員会」は即売会の開催ごとに結成・解散されることを前提としていた。これは日本SF大会の採っている方法と同じであるが、実は白土三平の描く忍者組織をイメージしていたとされる。
- 迷宮は会員制サークルではなく、原田央男によれば「そこに集って運動をなす者が構成員となるいわば『場』であって、その場に集う者が状況の中心となることを目指す」ことが活動の根幹にあり、その代わり「活動の責任を負う構成員」として自分たちがいたと述懐している[9]。そのため迷宮の集会に参加していた川本耕次は「迷宮の同人」と言われることについて「厳密に言うと若干違う部分もある」という認識を示しており[128]、これに関して式城京太郎も「喫茶店で毎週集まっては集会っていうか、色んな人が入れ代わり立ち代わり、そのまま去らない人もいるんですね。ただその人達が迷宮かというとはっきりしてなくて、実際に作業をする時はいなかったりするんです。作業を手伝う人がコアメンバーかというとそれも違って、活動方針の話をするとサーッといなくなったり」と語っている[129]。
- コミックマーケットで第1回目から途切れ目なく参加を続けている皆勤サークルは「迷宮」のみ。ただし、2019年のC95では申し込みミスによりスペースを獲得できず、イベントが始まって以来初となるスペースなしでの参加となった[130]。これについて「迷宮」スペースを守っている堀内満里子(火野妖子)によれば、コミックマーケットと「迷宮」が分離した後も、かつては「迷宮」のスペースが準備会の計らいで確保されていたというが、年月が経過する中で「存在を忘れられてしまった」と述べている[131]。現サークル代表の原田央男も『コミックマーケット創世記』で現在の「迷宮」が置かれた状況を次のように語った[132]。
それでも『漫画新批評大系』を置く場所は、現在でもコミックマーケットの会場に「迷宮」のための即売スペースとして特別に提供され続けている。けれどそのスペースを与えられた「迷宮」がどんなサークルなのか、知っている参加者はもう誰もいない。
関係者一覧
[編集]迷宮オリジナルメンバー
[編集]- 亜庭じゅん(葉月了) - 『漫画新批評大系』主筆・編集人。1975年から2011年まで迷宮代表[133]。
- 原田央男(かみしま永) - コミックマーケット準備会初代代表。2011年から迷宮代表。
- 米沢嘉博(相田洋) - 亜庭と原田の助手。のちにコミックマーケット準備会2代目代表。
- 高宮成河 - チャンネルゼロ刊『漫金超』編集者。ウィキペディアの当該記事を執筆[134][135]。
- 式城京太郎 - 漫画大会を告発する会の担当者[42]。のちに迷宮から離れる[136]。
迷宮=初期コミックマーケット/MGM関係者
[編集]- 明石良信 - コミックマーケット防火管理責任者。「迷宮」の結成現場や第1回コミック=マーケットの開催に立ちあった最長老スタッフ。亜庭じゅんは「コミックマーケットの発案者/命名者」としているが[137]、本人は否定している[138][139][140]。
- 赤田祐一 - 高校時代に「迷宮」の会合に参加。太田出版『Quick Japan』創刊編集長を経て、有限会社エディトリアル・デパートメント『Spectator』編集部員。初期コミックマーケット関係者を取材したルポルタージュ連載「コミックマーケット創成期と同人誌」(ばるぼらとの共著)を『アイデア』(誠文堂新光社)に連載した[141]。
- 石川妙子 - 式城京太郎の妻。日本漫画大会参加者拒否事件の当事者。1987年没。
- 伊能正明
- 井上建一
- 太田隆
- 川本耕次 - 『漫画新批評大系』の三流劇画特集「三流劇画ミニマップ」を「全国三流劇画共闘会議」名義で手がける。その後、みのり書房『月刊Peke』編集長、アリス出版『少女アリス』編集長を経て『ロリコン大全集』(群雄社出版)を企画編集。群雄社倒産後はフリーで『ロリコンHOUSE』(三和出版)の監修を務めた。編集者時代は吾妻ひでおの担当編集者として数々の重要な作品に携わり、米沢嘉博や青葉伊賀丸と共に三流劇画ブーム〜ニューウェーブ〜ロリコンブームを牽引した。2022年没。
- 久地岡明
- 佐川俊彦 - サン出版『JUNE』創刊者・編集長。コミックマーケット準備会の命名者であり[142]、C1にチャンネルゼロ工房の東京支店長としてサークル参加した。のちに京都精華大学マンガ学部准教授。
- 鈴木哲也 - 同人サークル「MOB」代表。C1の公式ポスターを製作した[143]。
- 出口弘 - 最初期のコミックマーケットにかかわる。のちに千葉商科大学大学院商学研究科教授。
- 橋本高明 - 三流劇画誌『劇画アリス』(アリス出版)を米沢嘉博と共に「迷宮」として編集。その後、ロリータ小説家の青葉伊賀丸としてロリコンブームを牽引した。現在は消息不明[135]。
- 長谷川秀樹 - 迷宮主催の同人誌即売会「MGM」の運営に携わる。2018年没。
- 堀内満里子 - 老舗創作同人サークル「楽書館」メンバー。C1から参加しており[144]、亜庭・原田が不在時の「迷宮」スペースを40年近く守り続けている[111]。
- 水野流転 - 楽書館の主宰者。2023年没。
- 壬生頼之 - 同人誌即売会「MGM2」初代代表。1980年代以降の「迷宮」を長谷川とともに支えた。
- 村上知彦 - 独立系出版社「株式会社チャンネルゼロ」創設メンバー。
- 安田かや - C2から参加している最古参スタッフ。のちに有限会社コミケット代表取締役、C71よりコミックマーケット準備会共同代表。
- 米沢英子(板野英子) - 米沢嘉博の妻。
- Calci/Dr.P - C5から参加している最古参スタッフ[145]。のちにコミックマーケット準備会救護室担当。初期コミックマーケットや迷宮関係者の貴重な写真を多数撮影した[146][147]。
『漫画新批評大系』目次総覧
[編集]亜庭じゅんが編集・発行を行っていた、迷宮の機関誌『漫画新批評大系』は、1975年夏から1981年末までの間に15号まで刊行された。刊行は3期に分かれている。第3期の開始時点では、同人誌から脱皮して全国誌・総合誌への進展も視野に入れていたが、状況の変化により、その企図は叶わず15号での休刊となった。
下記リストでは『漫画新批評大系』本誌の他に、単行本として発刊された『漫画新批評大系叢書』も加え、目次総覧とした。
- 創刊準備号(通巻1号)1975年7月26日発行/頒布=第4回日本漫画大会
- B5判/80P/ジアゾ式青焼コピー/定価300円
- 折り込みピンナップ(Backy Arrow)
- 運動宣言(迷宮'75)
- 特集/萩尾望都 プチア・ラ・カルト
- パロディ/猟奇ロマンシリーズ・ポルの一族──ほるか、する一族によせて・前編(Backy Arrow)
- 萩尾望都の世界──ただ憧れを知るもののみ…(亜庭じゅん)
- パロディ/やさしいお料理教室 萩尾望都の作り方
- 黄昏どきの大騒ぎ──山上たつひこ戯作者への道(高宮成河)
- 書評/戦後マンガ史ノート(J・A)
- パロディ/まんがの無視1(企画/MTP制作/関西臭英社)
- パロディ/ブーン業ドキュメント―色条プロ'84(竹中・シナロー)
- 連載/マニア運動体論・序説(迷宮'75)
- 表紙イラスト/Backy Arrow
- 編集・発行/迷宮'75
- 第1期 第1号(通巻2号)1975年11月28日発行/頒布=コミックマーケット1
- B5判/86P/ジアゾ式青焼コピー/定価350円
- 折り込みピンナップ──もーさまぬりえ
- 特集/水野英子 NORETURN?(亜庭・米沢・山本)
- 星と神話と…
- ハニーハニーの孤独な冒険
- ファイヤーへの軌跡
- ファイヤー?
- 萩尾望都の世界・後編──ただ憧れを知るもののみ…(亜庭じゅん)
- パロディ/猟奇ロマンシリーズ・ポルの一族──ほるか、する一族によせて・後編(Backy Arrow)
- ファンダム情報1
- 風のうわさ話1(イーダ・コロコロ)
- 読者欄/アリアドネの糸
- 連載/マニア運動体論(迷宮'75)
- 第一章・転機にたつコンベンション
- 表紙イラスト/高橋祐子
- 編集・発行/迷宮'75
- 第1期 第2号(通巻3号)1975年12月20日発行/頒布=コミックマーケット1
- B5判/68P/ジアゾ式青焼コピー/定価300円
- 折り込みピンナップ
- 特集/パロディの地平から
- パロディの地平から(かみしま永)
- パロディ/ウルフグァイからの手紙(樹緑みのり)
- パロディ/ベルサイユの赤いバラ(Backy Arrow)
- パロディ/NO!バイドくん(いしいでこいち)
- 真っ白なSF──藤子不二雄小論(相田洋)
- オスカル・フランソワ、お前は誰だ
- 分析「ベルサイユのばら」舞台と原作の間(亜庭じゅん)
- 時評/少女マンガは陽の目を見たか?(かがみばらひとみ)
- パロディ/ポルの一族・完結編(Backy Allow)
- ファンダム情報2
- 読者欄/アリアドネの糸
- 連載第二回/マニア運動体論(迷宮'75)
- 第一章/転機にたつコンベンション(続)
- 第二章/虚妄の中のマンガ・ファンジン
- 表紙イラスト/Backy Arrow
- 編集・発行/迷宮'75
- 第1期第3・4号(通巻4号)1976年7月25日発行/頒布=コミックマーケット3
- B5判/146P/オフセット/定価400円
- 綴じ込みピンナップ(高宮成河)
- 特集/少年マンガエレジー
- 総論・夢の墓標に花束を(葉月了)
- 少年論・夢の少年王国(相田洋)
- 想像力論・少年達は死んだ(神島永)
- ヒロイズム論・出口なきヒロイズム(羽総田牢)
- エッセイ かくして七色仮面は消えた(式城京太郎)
- 作家研究/大島弓子
- 透明な流れから…(夏樹映)
- ペンペン草アルカディア(ばるぼらはこべ)
- 優雅にして感傷的なラ・ファルス(亜庭じゅん)
- パロディ/サメの音がきこえる(きみどりみのり)
- 異形の暗闇 水木しげる論(相田洋)
- 樹村みのり論のためのノートⅠ(亜庭じゅん)
- コミックマーケット・一本の糸(原田央男)
- 書評/ガラス玉(K・H)/月夜のバイオリン(OR)
- 時評/祝・“火の鳥”出版!/文庫大革命?(Y)
- パロディ/真説・宇宙戦艦ヤマト(吉田あかり)
- パロディ/ポルの一族 その4(Backy Allow)
- ファンダム情報3
- 小特集/アリアドネの糸
- 連載第三回/マニア運動体論(迷宮'76)
- 第二章/虚妄の中のマンガ・ファンジン
- 表紙イラスト/高橋祐子
- 編集・発行/迷宮'76
- 第1期 第4・5号(通巻5号)1976年12月1日発行/頒布=コミックマーケット4
- B5判/110P/オフセット/定価400円
- 綴じ込みピンナップ(オレンスジャック)
- 特集/少女マンガの光と影と
- 序論―少女幻想の時代(かがみばらひとみ)
- 少女マンガにおける少年愛の系譜(魔月千沙)
- 少女マンガのロック・スリップ(伊集院乱丸)
- 変調・矢代まさこ論(渡辺ふゆ)
- セブンティーン讃歌!(かくぼさえこ)
- 密室のナルシズム(夏樹映)
- おいしい恋ぐすり―陸奥A子を中心に(奈加久礼)
- ときめき―千明初美小論(鎧沢美音)
- 岡田史子の神話(パースペクテブ・フーミン)
- 樹村みのり論のためのノートⅡ(亜庭じゅん)
- ユートピアの変遷 水木しげる論(相田洋)
- パロディ/11人?いた!(Backy Allow)
- ファンダム情報4
- 連載第四回/マニア運動体論(迷宮'76)
- 第二章/虚妄の中のマンガ・ファンジン(続)
- 第三章/サークルから読者へ
- 表紙イラスト/高橋祐子
- 編集・発行/迷宮'76
- 第1期 第6号(通巻6号)1977年4月10日発行/頒布=コミックマーケット5
- B5判/124P/オフセット/定価400円
- 綴じ込みピンナップ(オレンスジャック)
- 特集/チェックメイトCOM
- 朝の光の中でいましばらくの睡みを貪るための方法論 その序説(亜庭じゅん)
- 火の鳥はとんだか(相田洋)
- 旅立ちは蒼ざめた季節より(夢路生真孤吐=長谷川秀樹)
- Oの悲劇(Aniwa Junne)
- グラコン版・あの人は今(迷宮'77)
- 結論 チェックメイトCOM(A.J)
- 作家研究/竹宮恵子
- 聖少年論(四集院欄)
- 愛留巣の場―アルスノヴァー(菊池圭)
- 出会いはいつも驚きーSFにふれてー(奈加久礼)
- 迷宮ゲーム―竹宮恵子を探すこころみ(かがみばらひとみ)
- パロディ/風と木の逆襲!(迷宮恵子&マランキライザープロ)
- まんがなんて知らないよ―もうひとつの亜庭じゅん批判!(ま)
- 新批評大系第一期総括に替えて(A・J)
- 連載第五回/マニア運動体論 第一部 最終回(迷宮'77)
- 表紙イラスト/高橋祐子
- 編集・発行/迷宮'77
- 第2期 第0号(増刊号)1977年7月31日発行/頒布=コミックマーケット6
- B6判/38P/オフセット/定価100円
- 第二期の始まりに向けて
- 第二期の内容紹介
- 新連載予告―戦後少女まんがの流れ 序章
- 緊急エッセイ/石子順造氏逝く!!
- コラム/アニメ百景
- コラム/SF三流劇画だって!
- 巷の情報(きみどりみどり)
- パロディ/恐怖新聞・日曜版(うのだ痔ろう)
- 日本マンガ・ファン縦断・番外編
- 乾いた世紀末森川久美小論(かがみばらひとみ)
- 表紙イラスト/石川妙子
- 編集・発行/迷宮'77
- 第2期 第1号(通巻7号)1977年12月31日発行/頒布=コミックマーケット7
- 特集/SFとマンガと
- B5判/116P/オフセット/定価450円
- SFマンガの転末(相田洋)
- 石森SF論syoの道(楡島優)
- 私の異常な愛情(王田離融)
- 宇宙の爆発!(葉月了)
- 倉田江美アトランダム(妙見ルカ)
- 三流劇画ミニマップ・前編(全国三流劇画共闘会議)
- 書評/「手塚治虫の奇妙な世界」の奇妙な世界(Y)
- 書評/「雨」(A・J)
- 書評/「月刊ペン」(現代マンガその表現をめぐって)をめぐって
- 時評/マンガ館でつかまえて(y・y)
- 巻の情報(よりどりみどり)
- パロディ/地球へ…(美堂龍馬&マランキライザープロ)
- パロディ/ March Fool 1(March House)
- 連載/戦後少女マンガの流れ(戦後少女マンガ史研究会)
- 第一回/少女マンガ幼年期の始まり
- 小論/リボンの騎士(片桐学)
- 表紙イラスト/さべあのま
- 編集・発行/迷宮'77
- 第2期 第2号(通巻8号)1978年4月1日発行/頒布=コミックマーケット8
- B5判/128P/オフセット/定価450円
- 特集/はみだしっ子 in 4D
- はみだしっ子 in 4D
- 総括その1・三原順、その世界
- 総括その2・はみだしっ子ファンルーム
- 断片・一ノ関圭(有川優)
- 屈折果つるとき―槇村さとる論(伊集院乱丸)
- マンガにおけるグロテスク・肉体の光と闇(相田洋)
- パロディ/もいちど ホルスの大冒険(Backy Arrow)
- 三流劇画ミニマップ Part2(全国三流劇画共闘会議)
- 知られざる作家たちの苦吟のうちの情熱を知れ! 清水おさむ/吉田英一直撃インタビュー
- 書評/マンガ批評あれこれ(つかみどり)
- まんがじーざすくらいすと(たむろ未知)
- 巷の情報 (よりどりみどり)
- パロディ/ March Fool 2 (March House)
- 連載/戦後少女マンガの流れ(戦後少女マンガ史研究会)
- 第二回/密室の構築 月刊誌の時代 S32~33年
- 石森章太郎の少女マンガ(山崎昇)
- すぎし夢のあと―わたなべまさこ&牧美也子(夏樹映)
- 表紙イラスト/さべあのま
- 編集・発行/迷宮'78
- 第2期 第3号(通巻9号)1978年7月29日発行/頒布=コミックマーケット9
- B5判/140P/オフセット/定価450円
- 特集/まんが同人誌'78
- まんが同人誌の現況―コミケットを中心に(相田洋)
- 日本マンガファン縦断幻視の同人誌
- インタビューまんがサークル(相田洋・高宮成河・亜庭じゅん)
- 同人誌病患者の告白(患者No.6)
- 同人誌作家論の試み(葉月了・伊集院乱丸・むろうまこと)
- 同人誌作家紹介・ドラゴン・ドラゴン(柴門ふみ)
- 作家研究/樹村みのり
- 樹村みのり作品史と状況(かがみばらひとみ)
- 初期作品紹介・ピクニック/ふたりだけの空/エッちゃんのさくら貝/こわれた時計/あした輝く星
- 伸びてゆくもの樹村みのり論ノート断章(亜庭じゅん)
- 叙情の変革―大島弓子から真崎守ヘ―(村上知彦)
- 溶解するオブジェ・諸星大二郎小論(相田洋)
- ガラスの少女・山田ミネコ小論(楡島優)
- まんが/終末(Backy Arrow)
- 巷の情報(よりどりみどり)
- パロディ/March Fool 3 (March House)
- 連載/戦後少女マンガの流れ(戦後少女マンガ史研究会)
- 第三回/貸本少女マンガの盛衰
- 「ようこ」たちの世界・作家論〈矢代まさこ〉(有川優)
- 表紙イラスト/さべあのま
- 編集・発行/迷宮'78
- 第2期 第4号(通巻10号)1978年12月17日初版発行/1979年4月8日改訂版発行/頒布=コミックマーケット10&11
- B5判/148P/オフセット/定価450円
- 特集/総括・花の24年組―午前1時のシンデレラたち
- 木原敏江に愛をこめて(中島梓)
- 総論・薔薇の魔法陣(亜庭じゅん)
- 特別インタビュー・寄稿(増山法恵)
- メリーベルよ、帰れ(かみしま永)
- ガラス細工の肉塊肉体と狂気!恐怖のアンバランスゾーン(相田洋)
- 天使の階段―山本鈴美香小論(亜庭じゅん)
- 出ていった人 入ってきた人樹村みのりと大島弓子(有川優)
大島弓子・夢の中の日常(村上知彦)
- 海を前に少女は冒険を志す(高取英)
- 24年組の色香に誘われて(伊集院乱丸)
- 眼窩の闇の中に青年まんがの後退線(高宮成河)
- 時評/まんが戦線異状あり(つかみどり)
- 巷の情報(よりどりみどり)
- パロディ/キャプテン・ハードロック(松本十二時&零友会)
- パロディ/March Fool 4/5(舘弥生/March House)
- 連載/戦後少女マンガの流れ(戦後少女マンガ史研究会)
- 第四回/週刊誌時代の幕開き!!
- 表紙イラスト/さべあのま
- 編集・発行/迷宮'78
- 第2期 第5号(通巻11号)1979年7月26日発行/頒布=コミックマーケット12
- B5判/124P/オフセット/定価450円
- 創作特集 同人誌作家の新地平
- 同人誌作家の新地平(亜庭じゅん)
- おすわりあそべ(高野文子)
- 夢織人(朔原萌)
- 青い国四国(柴門ふみ)
- 小特集/斬る!!
- 少女まんがを斬る!!(有川優)
- ジョージ秋山を斬る!!(愚弄魔事)
- 西岸良平を斬る!!(愚弄魔事)
- 小池一夫を斬る!!(川本耕次)
- 石森章太郎を斬る!!(妙見ルカ)
- 才谷遼を斬る!!(村上知彦)
- まんが批評を斬る!!(Dirty Birdy)
- 翔んだカップルを斬る!!(式城京太郎)
- 出版社・取次を斬る!!(竜堂寺しずか)
- 日本マンガファン縦断―世界への扉を開くブローカー
- インタビューその5/まんがはうす(高宮成河)
- 敵の輪郭―男組完結記念(高宮成河)
- 高橋亮子論草稿―その見えない道の在りか(亜庭じゅん)
- パロディ/March Fool 6 (March House Ⅱ)
- 連載/戦後少女マンガの流れ(戦後少女マンガ史研究会)
- 第五回/『りぼんコミック』と萩尾望都ショック
- 表紙イラスト/さべあのま
- 編集・発行/迷宮'79
- 第3期 第1号(通巻12号)1979年12月23日発行/頒布=コミックマーケット13
- B5判/120Pオフセット/定価450円
- 特集/NEW・COMIC
- NEW・COMIC戦略教程(亜庭じゅん)
- 誰が鵞鳥を殺したか?―ダディ・グース―(村上知彦)
- 未完の神話―大友克洋―(高宮成河)
- 最低人は神である!―いしいひさいち―(葉月了)
- お楽しみのパースペクティブ―ひさうちみちお―(小谷哲)
- ホモまんが熱烈歓迎!の底流(未知数)
- 近ごろ気になるまんがたち
- 同人誌「絵魔」の世界(室生真)
- 鉄腕アトム年代記1(太田隆)
- 連載まんが/Three Way St.(たむろ未知)
- 表紙イラスト/さべあのま
- 編集・発行/迷宮'80
- 第3期 第2号(通巻13号)1980年5月11日発行/頒布=コミックマーケット14
- B5判/120P/オフセット/定価450円
- 特集/パワーストーリー
- 物語無限への途(亜庭じゅん)
- 頂上の虚無―男一匹ガキ大将(高宮成河)
- 斗いの神話構造―永井豪論(相田洋)
- 「イブ」が総て―青池保子の反物語世界(亜庭じゅん)
- 愛しのキース・エマーソン(プリズナー・ロック)
- 迷宮通信
- 迷宮緊急アピール/夢の明日・明日の夢(迷宮'80)
- 室生真の同人誌評
- 時評まがい/「カインの海辺」はやっぱりすごいのだ!!(亜庭じゅん)
- 湘南フラワーシティ通信1(有川優)
- 三流劇画の行末
- 大快楽マントラスーパー(小谷哲)
- 漫画エロジェニカ編集の原点(高取英)
- 貴族主義者の栄光―名香智子論Part1(伊集院乱丸)
- パロディ/March Fool 7 (March House)
- 鉄腕アトム年代記2 (太田隆)
- 書評/戦後少女漫画史 (射手駒勢)
- 連載まんが/Three Way St.(たむろ未知)
- 読者から迷宮へ/「男組」と「ファラオの墓」
- 表紙イラスト/さべあのま
- 編集・発行/迷宮'80
- 第3期 第3号(通巻14号)1980年12月31日発行/頒布=コミックマーケット17
- B5判/112P/オフセット/定価500円
- ルポ特集/新雑誌は何を考えているのか?
- 10雑誌直撃インタビュー(ヤングジャンプ/プチフラワー/ギャルズコミック/ビッグゴールド/アクションDX/カスタムコミック/リュウ/トム/ポップコーン/少年少女SFマンガ大全集 各編集部)
- 対談・漫金超vsマンガ奇想天外
- 総括・新雑誌 成長の限界?(A・J)
- 特集/スクリーンへ!
- 手塚マンガにおける映画的手法(竹内オサム)
- 無節操な日和見(式城京太郎)
- 闇を知らないアニメーション(葉月了)
- 映画はまんがに嫉妬する(村上知彦)
- 70年代のまんが原作映画作品リスト(村上知彦編)
- 森川久美―魔都物語―(亜庭じゅん)
- 同人誌紹介/批評誌・情報誌が活発になってきた
- パロディ/Back To March Fool(March House)
- 書評/まんがは世界三段跳び(亜庭じゅん)
- 書評/この本を推す! 私、プロレスの味方です
- 連載まんが/Three Way St.(たむろ未知)
- まんが・ミニ・マーケットPR
- 読者から迷宮へ/道化の目―森川久美小論(丸山麻紀)/『斗いの神話構造』への疑問(大塚えいじ)/すべて語り得ることは明らかに語りうる、そして、語りえぬことについては、沈黙しなければならない。(都河泰久)
- 表紙イラスト/高橋祐子
- 編集・発行/迷宮'80
- 第3期 第4号(通巻15号)1981年12月20日発行/頒布=コミックマーケット19
- A5判/140P/オフセット/定価400円
- 小特集/気分はもう戦争!
- 『気分はもう戦争』はこう読め!(村上知彦)
- 肯定の闇から峻別の?(南端利晴)
- 世界同時革命とロリコン(亜庭じゅん)
- 書評/叛逆伝説
- きらめくブリッジパッセージ―くらもちふさこ―(亜庭じゅん)
- 自閉空洞説―高野文子(妙見ルカ)
- 水野流転研究(壬生頼之)
- 記憶にないもの(有川優)
- まんがをめぐる言葉をめぐって(亜庭じゅん)
- 時評/70年代の残り火が消えて
- 読者から迷宮へ/樹村みのり「窓辺の人」について(斉藤信行)/評論の扱いと評論という分野(次元)について(池田真一)
- まんが/ツーレにて(間宮レイ)
- アピール/コミケット・クーデター事件について(亜庭じゅん)
- 表紙イラスト/高橋祐子
- 編集・発行/迷宮'81
- 亜庭じゅん大全 A LONG LONG STORY(通巻16号)2011年12月31日発行/頒布=コミックマーケット81&MGM98
- A5判上製/本文832頁/定価2000円
- 序に替えて──亜庭じゅんについて(迷宮'11)
- 第一部 まんがをめぐる言葉・よむこととかくこと
- 少女マンガのあしたはどっちだ もしくはオハナ畑の遺産相続人
- 萩尾望都の世界 ──ただ憧れを知るもののみ
- 萩尾望都の世界 後編 ──ただ憧れを知るもののみ
- 書評 戦後マンガ史ノート(石子順造著・紀伊國屋書店刊)
- 水野英子 NO RETURN?
- オスカル・フランソワ、お前は誰だ! ─分析「ベルサイユのばら」舞台と原作の間
- 少女マンガは陽の目を見たか? ──マスコミ少女マンガ論への一視点
- 人形たちへの扉 岡元敦子断章
- モーさま・クライスト・スーパー・スター! ──萩尾望都、祭壇への宿命
- 軽やかな未来 ──萩尾望都とコメディ
- 少年マンガエレジー 夢の墓標に花束を
- 少年マンガエレジー 出口なきヒロイズム
- 優雅にして感傷的なラ・ファルス
- 書評 ガラス玉(岡田史子・朝日ソノラマ)
- 書評 月夜のバイオリン(萩尾望都・オリオン出版)
- 樹村みのり論のためのノート その1
- 樹村みのり論のためのノート その2
- 少女マンガの光と影 ─序論─ 少女幻想の時代
- 少女マンガの光と影 ─千明初美論
- Oの悲劇 ──岡田史子メモワール── COM実験マンガに寄せて
- 結論 チェックメイトCOM ─街にチェシャ猫を解き放て─
- 新批評体系第一期総括に替えて もしくは“アリアドネの糸”変形
- 乾いた世紀末 ─森川久美小論─
- 新連載予告 戦後少女まんがの流れ
- 書評 雨(樹村みのり・朝日ソノラマ)
- 書評 マンガ批評あれこれ
- はみだしっ子 in 4D
- 樹村みのり 作品史と状況
- 伸びてゆくもの ─樹村みのり論ノート 断章─
- まんが同人誌'78 同人誌作家論の試み
- 闇討時評・斬捨御免
- 書評 中島梓の手塚治虫論
- 総括・花の24年組 総論 薔薇の魔法陣
- 総括・花の24年組 天使の階段 山本鈴美香総論
- まんが戦線、異常あり!?
- 菜の花畑でつかまえて ──少女マンガのモブシーン'79
- 高橋亮子論草稿 ──その見えない道の在りか
- まんが批評を斬る!!
- NEW・COMIC戦略教程 ──全世界ローラー作戦の開始に向けて
- 最底人は神である!
- 菜の花畑へ行く道
- コミックスレビュー 少女まんが1
- 物語無限への途──
- 「イブ」が全て ─青池保子の反物語世界─
- 時評まがい 「カインの岸辺」はやっぱりすごいのだ
- コミックスレビュー 少女まんが2
- 新雑誌は何を考えているのか?
- この本を推す「私、プロレスの味方です」(村松友視・情報センター出版局)
- 時評まがい「マンガは世界三段跳び」(飯田耕一郎/有川優/亀和田武・本の雑誌社)
- 森川久美 魔都物語
- 闇を知らないアニメーション
- 80年最高のまんがはスター・ウォーズだ!
- コミックスレビュー 少女まんが3
- コミックスレビュー 少女まんが4
- 70年代の残り火が消えて…
- きらめくブリッジパッセージ
- 世界同時革命とロリコン
- 自閉空洞説 もしくは高野文子をクスリとも笑わせないための敵前逃亡
- 書評 叛逆伝説(政岡としや/宮田雪・オハヨー出版)
- まんがをめぐる言葉をめぐって
- 対談 亜庭じゅん×高取英
- コミックスレビュー 少女まんが5
- 1960年代、石森章太郎の挑戦
- 樹村、岡田、萩尾 ──少女漫画の流れを大きく変えた『COM』の三人
- 亜庭じゅん、お前は誰だ? Qui êtes-vous, Junne Aniwa?(村上知彦)
- 第二部 ファンダムの幻・同人誌の夢
- マニア運動体論・序説 ──方法の問題── マニアに未来はあるか!?
- マニア運動体論 第一回
- マニア運動体論 第二回
- マニア運動体論 第三回
- マニア運動体論 第四回
- マニア運動体論 第一部 最終回
- 朝の光の中でいましばらくの睡みを貪るための方法論 その序説
- まんが同人誌'78
- 千明初美さんの原画展に行ってきました
- 同人誌作家の新地平
- 夢の明日・明日の夢 ─迷宮緊急アピール─
- ミニ・マーケットは、こんなことを考えています…!
- ミニ・マーケット1総括!
- 斜説 MGM改称由来記
- SHASETSU
- コミケットレポート
- あの亜庭じゅんがMGMを語る
- コミケット異変!!
- “いのり”をどうしても紹介したいので……
- 名古屋は燃えている
- コミケット・クーデター事件について・アピール
- しゃせつ ヤバイ時代に
- 火野妖子友の会発足・祝辞
- SHASETSU! 即売会におけるモラルとは何か?
- 即売会って何なのサ!?
- しゃせつ 即売会の後継者
- SHASETSU
- コミカの終了は同人誌即売会の衰退の予兆となるのだろうか?
- MGM10 MEMORY 挨拶
- REPORT of MGM11!
- まんがせえる5 REPORT
- SHASETSU! あなたのモラルは200円!!
- SHASETSU 断乎!創作至上主義に開き直るカンネ!
- SHASETSU 1983→1984、MGMにいまいち元気がない──!?
- コミケットは趣味が不自由なのである
- MGM16 ─FOR・LADY'S挨拶
- 書簡 亜庭じゅんからまんがせえるへ
- しゃせつぅ
- 創作同人誌不況の時代に原点を問い直す!?
- まんがせえる7レポート
- MGM Q&A
- MGM19 ─FOR・LADY'S・2 REPORT
- MGM20 ─ADULT ONLY 挨拶
- MGM20 ─ADULT ONLY REPORT
- SHASETSU 気の滅入る話を──うだうだと……
- SHASETSU 即売会のまわりが、どーにも生グサくなってきた…
- SHASETSU……も書く元気がなくて
- MGM25 ─IN・PERSON 挨拶
- SHASETSU
- SHASETSU〜代わりに ちょっと深刻なお便りを……
- 寄稿 まんがせえる ファイナルレポート
- SHASETSU
- 敏感な読者を集め 挑発的な即売会を
- LETTERS MGM新聞34号
- みんなでうまくなろうやんけ!! 1
- みんなでうまくなろうやんけ!! 2
- みんなでうまくなろうやんけ!! 3
- みんなでうまくなろうやんけ!! 4
- MGM40 ─THE・GALLERY挨拶
- ちょっと一言……不毛な言葉を
- MGM50回記念 A・LONG・LONG・STORY挨拶
- MGM60 挨拶
- MGM63 ─OFFSET・OFF 挨拶
- 明石さんへ
- 即売会主催者アンケート
- コミケ誕生打ち明け話
- MGMに参加したこともないくせに…あるいは亜庭じゅんについて(原田央男)
- 第三部・付録
- 初期評論
- 投書 COM ぐら・こんロビー
- 薄明の現在
- 第一章 銀色の少女たち
- 第二章 失速するSF
- 第三章 エネルギーの奔流
- 漫画新批評大系全リスト
- MGM開催全記録
- まんが作品全リスト
- 初期評論
- 後記(高宮成河)
- 編集・発行/迷宮'11(高宮成河/原田央男)
- 漫画新批評大系叢書 Vol.1 萩尾望都に愛をこめて 1976年4月3日発行/頒布=コミックマーケット2
- B5判/52P/オフセット/定価300円
- 評論
- モーさま・クライスト・スーパースター ―萩尾望都、祭壇への宿命―(かがみばらひとみ)
- 球形のエデン─『11月のギムナジウム』・『トーマの心臓』(しもつきたかなか)
- SFと萩尾望都(相田洋)
- 軽やかな未来―萩尾望都とコメディー(ド・マニア)
- メロドラマの紡ぎ手たち―萩尾望都と大島弓子―(夏樹映)
- アンコールレビュー/作品紹介
- ケーキ・ケーキ・ケーキ
- かたっぽのふるぐつ
- WHAT IS 萩尾望都?/アンケート集計報告
- パロディ巨編/ポルの一族・総集編 (Backy Arrow)
- 編集・発行/迷宮'76
- 編集代理人/かみしま永
- 漫画新批評大系叢書 Vol.2 ときめき 千明初美・未発表作品集 1977年1月1日発行/頒布=コミックマーケット4
- B5判/140P/オフセット/定価480円
- 作品
- ひとりぼっちのユミール
- ときめき
- ケンタウロスの恋
- 雨の日曜日
- 若葉のささやき
- 作品紹介
- 雪の世の物語
- ときめき
- 千明初美作品リスト
- 編集・発行/迷宮'77
- 漫画新批評大系叢書 Vol.3 シングル・ピジョン さべあのま作品集 1979年4月8日発行/頒布=コミックマーケット11
- A5判/162P/オフセット/定価500円
- 作品
- 星を売る少女
- 無題(ギャグ漫画)
- おたんじょう日
- 海星紀行
- ひとりぼっちのおはなし
- 伝言
- 通信 ネバーランドより
- まっ白けな一日が過ぎてゆく
- ものろうぐ
- NOMA PROLOGUE(C2で頒布された個人誌の復刻)
- エデンの園
- 正平くんの雑記帳
- Ten Pence
- 解説
- 僕の星間物質運搬者(亜庭じゅん)
- 幼年期の終わりに向けて…(川本耕次)
- さべあのま作品リスト
- 編集/川本耕次
- 発行/迷宮'79
参考文献
[編集]- 商業出版
- 霜月たかなか(原田央男)『コミックマーケット創世記』(2008年12月30日〔発売日は12月12日〕朝日新聞出版、朝日新書、税抜き700円、216頁、ISBN 978-4-02-273250-7)
- 『コミックマーケット30'sファイル』(2005年7月25日 編集:コミックマーケット準備会、発行:有限会社コミケット、発売:青林工藝舎、税抜2000円、392頁)
- 赤田祐一/ばるぼら「コミックマーケット創成期と同人誌」『20世紀エディトリアル・オデッセイ 時代を創った雑誌たち』(2014年4月、誠文堂新光社、147-178頁)
- 霜月たかなか「70年代までの同人誌」
- 鈴木哲也「MOBのできるまで」
- 式城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」
- 川本耕次「1976-79年『A5判の夢』〜『シングル・ピジョン』」
- 川本耕次『ポルノ雑誌の昭和史』(2011年10月5日、筑摩書房)
- 佐川俊彦『JUNEの時代──BLの夜明け前』(2024年5月27日、亜紀書房)
- 自費出版
- 『コミケット年鑑'84』(1985年8月、コミックマーケット準備会、自費出版)
- 米沢嘉博「夢の記憶 記憶の夢」
- 『コミケット20's コミックマーケット20周年記念資料集』(1996年3月17日 20周年資料編集部、コミックマーケット準備会、自費出版、432頁)
- 『米澤嘉博に花束を』(2007年8月19日、虎馬書房、自費出版)
- 亜庭じゅん遺稿集『亜庭じゅん大全』(2011年12月31日〔発売日は2012年1月22日〕迷宮'11、自費出版、税抜き2000円、832頁)
- 『MGM100カタログ』(2013年1月27日、迷宮内MGM、迷宮'13、自費出版)
- 高宮成河「あの頃……雑感」
- 原田てるお「まんが同人活動と『日常』」
- 亜庭じゅん「亜庭じゅんの発言―1981春・コミックマーケット反省会」
- 国里コクリ『同人誌即売会クロニクル 1975-2022』(2022年8月13日/C100、自費出版、よつばの。)
- 国里コクリ『同人誌即売会メイカーズ [コミックスクウェア編]』(2023年8月13日/C103、自費出版、よつばの。)
- 小形克宏他『川本耕次に花束を』(2023年8月13日/C103、迷路'23、自費出版)
- 川本耕次/竹熊健太郎他『SFと美少女の季節──Pekeから少女アリスまで』(2024年8月12日/C104、迷路'24、自費出版)
- 亜庭じゅん/安田かや他『コミケット・スキャンダル』(1982年頃、発行年月日・奥付・サークル名・執筆者名ともに未記載、A5判50頁、少部数限定の青焼コピー誌)
- 1981年の冬コミ(C19)で勃発したコミックマーケット分裂騒動を『ルパン三世 カリオストロの城』になぞらえたパロディ漫画『コミケ3代目キリオトロの陰謀』(亜庭じゅん)を収録[148]。コミックマーケットやMGMでは頒布されず、当事者周辺のみで流通した幻の同人誌とされている[149]。
脚注
[編集]- ^ 亜庭じゅん「マニア運動体論・序説 ──方法の問題── マニアに未来はあるか!?」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)478P
- ^ 亜庭じゅん「寄稿 まんがせえる ファイナルレポート」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)679P
- ^ “100回目のコミックマーケット 「SPY×FAMILY」などコスプレで楽しむ参加者の姿” (2022年8月14日). 2022年8月15日閲覧。
- ^ 「迷宮を始めるに当たってメンバーは、3000円ずつ最初に出している。コピー機の購入などにあてるためだ。その後、資金となったのは本の売り上げ、予約金だった。コミケットも迷宮から借金しながら77年頃までは開かれることになっていく。それと、当日集まったカンパによって、なんとかなっていたというのが実状である。準備会が立ち上がってからも、迷宮への借金は残ったままの形となり、コミケット永久スペース提供という約束が交わされ、それは今も続けられている。」米沢嘉博「前史」『コミックマーケット30'sファイル』(有限会社コミケット/青林工藝舎 2005年7月25日)29P
- ^ 「高宮さんが原田さんに『亜庭じゅんっていうのが東京にいるから、場を持ってみたら?』と推薦して、あにじゅんに声をかけて、米やんにも声をかけてみんなで会ったのが始まりです。西と東の連中5人が1975年の4月に新宿のカトレアって喫茶店に集まって、そのメンバーでなんとなく活動を始めました。」式城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」『20世紀エディトリアル・オデッセイ 時代を創った雑誌たち』(誠文堂新光社 2014年4月30日)160-161P
- ^ 「命名の場所は珍しく新宿の喫茶店であった(たしか『カトレア』であったと思う)。『黒い稲妻』とか色々案は出たのだが、これというものが無く困っていたが、亜庭氏が『迷宮』と言ったとたん、皆『それだ』ということになり、あとは一気呵成、迷宮(ラビリンス)の後ろに年号を入れようとか、会報名は山上たつひこ氏の『喜劇新思想大系』をもじって『漫画新批評大系』としたり、コラム名を『アリアドネの糸』にしようとか次々に決まっていった。」明石良信『昔話1 始まり編』2006年12月5日 mixi
- ^ a b 「『COM』なき時代にまんがに対して、単なるマニアが何をできるのか?/答えを求め、読者の側からまんがに働きかけようと有志が集まり、まんが評論サークル『迷宮』が発足した。/そして『まんが同人によるまんが同人誌即売会』の発想を得てその開催を画策した時、まずもって僕らが心掛けたのは、日本中のまんがサークルのネットワーク化を構想した『ぐら・こん』構想の、挫折の愚を繰り返さぬこと。即ち『COM』を、目的実現のための反面教師とみなすことだったのはなんという皮肉だろう。」原田央男「『COM』の残滓と『コミケ』黎明期の熱い季節」『東京人no.341』(東京出版 2014年7月3日)37P
- ^ 「『迷宮』の結成、漫画新批評大系の刊行とコミックマーケットの開催は、COMの崩壊後、自分たちで始めた『ぼくらの延長戦』だったが、亜庭じゅんは、『MGM』で更にその先を一人で戦い続けた。」高宮成河「後記」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)830P
- ^ a b 「正確にいえば僕らが作ったのはサークルでもクラブでもない。そこに集まって運動をなす者が構成員となるいわば『場』であって、その場に集う者が状況の中心になることを目指すことがその活動となる。そこまでいってしまうとさすがに建前になるかもしれないが、とにかく会員制ではなく、そのかわり活動の責任を負う構成員として僕や亜庭じゅん、米やんなどがいたのだということをわかってもらえればと思う。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)117P
- ^ 「このI嬢(引用者注:石川妙子)はその後、相思相愛の式城京太郎と1977年4月に結婚。幸せな生活を送っていたが、87年に不慮の事故により帰らぬ人となってしまった。『漫画大会を告発する会』結成のきっかけとなったことで、コミックマーケットの設立をも大きく促したことになる彼女の他界は、その時すでにまんがファン活動から離れていた僕にとっても最大の痛恨事となった。再会のかなわぬ記憶のなかの人となってしまったことが、今でも残念でたまらない。」霜月たかなか『コミックマーケット創成記』朝日新聞出版(朝日新書)2008年, Kindle版, 位置No.全2936中 1862 / 63%。ISBN 978-4022732507。
- ^ 「迷宮が対しようとしていたのは、スポ根や学園ラブコメに堕ちた商業誌マンガであり、旧態依然のマンガ評論であり、BNF(ビッグネームファン)など自閉した遊びに堕ちていったマンガファンダムであり、また『COM』の幻想に引きずられているファンたちであり、何も考えていない新興の若い世代だった。全てを解体した上で、混迷の状況の中に新たなマンガ状況を創り出して行くこと。その中には漫画大会や、コレクターたち中心のマンフェスへの決別の意志も含まれていた。そして、そうした中で、状況に検討を加え、新たな芽を育てていくこと。/そこに持ち込まれた漫画大会拒否事件は、早急に手をつけなければいけない問題でもあったのである。」米沢嘉博「前史」『コミックマーケット30'sファイル』(有限会社コミケット/青林工藝舎 2005年7月25日)27P
- ^ 「『迷宮』の結束がすごく固まったのは共通の敵が生まれたことで、それが漫画大会でした。以前からボランティアの警備係が官僚的というか、虎の威を借る狐というか、サングラスをして威張って非常に感じが悪かった。主催者の側はまあ任せるよって程度だったと思うんですけれど、そいつに象徴されるようなお役人的な雰囲気があって、それに対する反発があったんです。そこにきて参加者を拒否するって事件が起きたんです。石川妙子なんですが、参加申込書の隅にその警備係や漫画大会への批判的なことを書いたんです。そうしたら主催者の側から参加を拒否しますって書状が届いたんですね。それで当時私が恋人だったもんですから、私のところにこんなことされちゃいましたって同封されてきて、それを『迷宮』の集会で見せたんです。そうしたら、みんな盛り上がっちゃって『漫画大会を告発する会』を立ち上げて。」式城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」『20世紀エディトリアル・オデッセイ 時代を創った雑誌たち』(誠文堂新光社 2014年4月30日)161P
- ^ 「が然、集会は騒がしくなっていった。その頃、迷宮の集会はもっぱら、新宿丸井の屋上のテラスで行われていた。イスと机があり、冷水飲み放題(う〜ん、貧乏)という嬉しさ、そのうえ何時間ねばっても追い出されないというよさがあった。なんと、この『マルイ』テラスの集会は、同年(1975)9月から『コミケット定例企画集会』として毎週日曜開かれるようにさえなっていた。/迷宮から派生する形で『漫画大会を告発する会』が結成されたのは7月のことだ。更にそれは、迷宮の活動の場を再考させることでもあった。/もともと、読者状況の変革を目指していた迷宮の中には、恒常的なマンガフアンのための『場』の構築と発想があった。要するに同人誌のための場であるコミックマーケットのことだ。それが、この年の夏から動き出し、12月には第一回という早い実現に至ったのは、対漫大という状況があったからだろう。『漫画新批評大系』『コミックマーケット』『漫画大会を告発する会』は三身一体だったのだ。」米沢嘉博「夢の記憶 記憶の夢」『コミケット年鑑'84』(コミックマーケット準備会 1985年8月)143P
- ^ 「そして成果の面から見れば『漫画大会を告発する会』の活動は不毛であったとも思われるかもしれないが、実はこの活動を通じて『迷宮』は『漫画大会』に代わるまんがファンみずからの手になるイベントを模索せざるをえなくなり、将来の課題と考えていた『コミックマーケット』の実現に向けて大きく一歩を踏み出すことになるのである。亜庭じゅんの言葉を借りればそれは『反“漫画大会”でコミケットができたわけではない。ただあのころの大手サークルはどこもかしこも(プロ作家、役員、参加者の順に並ぶ)ピラミッドになっていたから、そんなヒエラルキーのできるイベントにはしたくな』かったということになる。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)129P
- ^ 「主催の迷宮が購買層の拡大を狙って始めた『ポルの一族』をはじめとするパロディが圧倒的支持を受ける。ここに、ファン、マニア間でのみ成立する、同人誌固有の『表現』としてのパロディが、コミケットの大きな流れのひとつになってしまったのだ。また、七〇年頃の創作マンガの流れが勢いをなくしていたこともあって、青春物や実験マンガといった物が、時代のなかで衰退していきつつあったことも、コミケットが当初描いた未来を大きく変えてしまったのかもしれない。」米沢嘉博「コミケット20年を振り返って」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)418P
- ^ 「パロディ『ポルの一族』、評論と硬軟から迫った為か一冊作るのに20分もかかるぶ厚い青コピー誌『漫画新批評大系』はかなり売れ、それがコミケットの資金源となった。」米沢嘉博「夢の記憶 記憶の夢」『コミケット年鑑'84』(コミックマーケット準備会 1985年8月)144P
- ^ 「まんが批評にとって、もっとも問題になるのは、まさしく、まんがをまんがとして論理化していく方法である。それはいいかえればまんがとは何かを常に衝迫する問いとして、まんがと対していくことなのだ。具体的に、それは絵やデティール、スタイルという言葉で語られている。だが、そうしたものは、必ずしもまんが家個人の個性だけによるものではない。まんがというメディアが持つ拡がり、在り方、連載という一事だけでも大きな要因をなしている中で、自身の価値の体系を組み上げていくことになる。他のジャンルで持っている批評の現実的な力を、まんがは一切持っていない。方法も、基準も、論点すらも、まんがにはない。『作品』『作家』という分析概念すら定かではないのだ。そうしたものを語りたい、知りたいとすれば、ゼロからでも無理矢理始めるしかない。」亜庭じゅん「まんが批評を斬る!!」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)305P
- ^ 「『かく』と『よむ』を介在する『物語』こそ、その超えるための武器となるべきであって、現実への肉迫が『かく』ことの意味ではない。そしてまんがとは、何よりも、『かくこと』自身が『物語』を宿しているといった幸福な様式なのだ。/まんがをかく、とは、作品をかくことに限らない。一つのカット、一つの似顔絵ですら、それはマンガである。それは、そうしたカット、落書きの中にすら、何らかのスタイルは存在するからであり、そうしたスタイルは、現実へかけられた変形の力だからである。絵画がその第一歩から『目に見えるもの』の構成へと向かい、現実を『見えるもの』の断面へと、色、形態、量へと還元しようとするのに対し、マンガは、概念としてのことばから出発する。ことばに変形を加え一つのスタイルに閉じこめて、提出する作業が、マンガをかくということなのだ。」「メッセージの媒体としての辞書的なことばとは、ある意味で、現実を統括する目に見えない網の目である。常識であり、処世術であり、実型化された思考であり、そういうものとして支配する。『物語』とは、この無意識の網の目を打ち破る想像力のくさびなのだ。それはあくまで『語り口』=スタイルであって、語られる話ではない。」亜庭じゅん「結論 チェックメイトCOM―街にチェシャー猫を解き放て―」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)305P
- ^ 「発表される作品にぴったり並走しながら、いま、ここで、それが描かれ、読まれる意味を問いかける。それこそが亜庭じゅんの方法だった。」「現在のように、まんがや作家や編集者をめぐる情報や知識が整備されていない時代、客観的資料も少なく、ましてや勝手な読み解きではなく作品や作家にきちんと向き合った信頼に足る評論など、存在しないも同然の時代に、徒手空拳でそれに挑んだ。その意味では、本人の意図したことかどうかはともかく、必ずしも既成の評論や従来の定説を批判しようとしたのではなく、むしろいきなり定説になろうとした、といっていいかもしれない。」「亜庭じゅんの批評に特徴的なのは、『かくこと』と『よむこと』のせめぎあいから、状況と作品を語ろうとすることだ。つまり状況論であっても、状況を外在するものとしてではなく、内在するもの、あるいは読者の内面の外化というふうに捉えているように見える。」「こういうふうに、自己を語るようにまんがを語り得た時代があったのだということ。作品を対象として、突き放して腑分けするのでなく、作品とともに生きること。そのように志したとき、批評というその目は時に、まるで自分自身を問いつめ糾弾するかのように、厳しく、執拗になる。」村上知彦「亜庭じゅん、お前は誰だ」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)469P/470P/471P/472P
- ^ 「一九六〇〜七〇年代の学生運動時代をリアルタイムで生きてきた私世代にとっては、亜庭さんの文章は、その延長線上にあるように感じられたし……」「まったくもって熱心な読者ではなかった私自身、実は誰にも負けないぐらいに、『漫画新批評大系』主筆の亜庭じゅんさんを意識してたってこと。『漫画大会』へのアンチとして『漫画新批評大系』と『コミックマーケット』が産まれたように、私の中ではアンチ『漫画新批評大系』、アンチ『亜庭じゅん』がエネルギー源になってきたんですよね。ずっと。だって『造反有理』世代なんだもん。」「これから読みますよ亜庭さん。さあ、二千円持って『亜庭じゅん大全』買いにいくぞー!!!」藤本孝人「37年後の言い訳。または、当時何故私は亜庭じゅん氏の評論を読まなかったのか。」『漫画の手帖B録04』(漫画の手帖事務局 2012年1月22日)
- ^ 「私の理解では、亜庭さんの魅力は文章。運動系にありがちといわれればそういう文体なんですが、煽る文章でとにかくカッコイイ。亜庭さんについて知らない人に対して「当時のおたく界一のモテ(特に批評系男子)」と私は説明しています。私はほぼ接点がないにも関わらず2回ほどお目にかかる機会を得ました。なんとも魅力的な雰囲気の方で、自分の説明がまちがっていなかったと確信がもてました。/亜庭さんの影響は1970年代末以降のまんが批評のいたるところに認められます。けれども今となってはそれを追うことはほとんどできません。ここからは私の妄想も入ってくるのだけど、私が仮に1980年代前半にまんが批評の単行本の企画を持っている編集者だったら、亜庭さんにほぼ1番に依頼したと思います。1980年代前半までにコミケット参加世代が主体となったまんが批評本が何冊か刊行されました。まだ数人しかまんが批評の本を出していない時代です。亜庭さんはその数人に入ってもおかしくないどころか当然の存在だったと思います。」白峰彩子「亜庭じゅんさんについて」『備忘録』閲覧日2014年4月7日
- ^ 「それにしても今回ようやくわかってきたというか、色んな方に昔の話を聞いていると、迷宮の漫画批評家の論客といえば断トツで亜庭さんなんですよね。みんな絶対口にする」ばるぼら「対談 70年代までの同人誌を2010年代に読む」『20世紀エディトリアル・オデッセイ 時代を創った雑誌たち』(誠文堂新光社 2014年4月30日)149P
- ^ 「ぼくらは『批評』を、『作品批評』を採った。それは何よりもぼくら自身のまんがとの距離を再検証することを急務としたからだ。『僕はマンガが好きなんです!』と絶叫するだけでは、運動自身破産〔ママ〕することはCOMの経験で明らかだ。常にマンガに溺れてしまう自己をみつめ、『自分にとってマンガとは何であるか?』の問いを、くさびとしてうちこむ冷めた視線をもたない限り、運動は空転するだろう。」迷宮'75「読者欄/アリアドネの糸」『漫画新批評大系』創刊号(迷宮'75 1975年7月)48-49P
- ^ 「村上知彦のいう『ぼくら』はCOM世代でも全共闘世代でもない。自分がまんがにとらわれていると自覚したものたちが、同じくとらわれていると自覚したものたちを予感する時たちあらわれる幻のことだ。それはまんがにどれだけの夢を背負わせ得るかを自問する意志の共有であり、世代とは無縁のことだ。『黄昏通信』は、そうした意志がそれだけで自立し得た時代の終わりを告げると同時に、それでもなお、その意志を生き延びさせようとする現実的な態度表明なのである。村上知彦は、世代の共有世界の崩壊を知った上で、たとえ一人きりでも『ぼくら』を背負う気でいる。その回路こそ、まんがを読むことだ。」亜庭じゅん「まんが批評を斬る!!」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)306P
- ^ 「あえて『思想』という。それは彼らの価値体系の用語だからだ。ぼくらの『思想』としてのまんがを突き出す時、ぼくらは、初めてぼくら自身を取り巻く日常と正面から向き合う場にたつ。/では、まんがの思想とはなにか? 『少年』『少女』であることの全面肯定である。現実を知る以前にまんがが示した世界との全的関わりの断固たる希求である。実際のガキ時代がどうあったかは全くどうでもいい。一旦、現実を知った上で、価値として対象化された『少年・少女』をまんがは肯定し抜くのである。幼児退行症、ガキ願望等の矮小化に耳を貸す必要はない。それあればこそ、ぼくらは日常を常に越えようとしてきたのだからだ。一瞬とはいえ、ぼくらはまんがによって全世界の存在を知ったのであり、変容し操作し得るものとして、それを自己のものにしたのだ。この体験こそ、文学、映画を知っても、ぼくらがなおまんがと結びつこうとした理由である。正義感や、感傷的なやさしさ、そして、残酷なまでの世界のもてあそび、/――かつてまんがにかかれたことのすべてを、ぼくらは今、思想の名において受けとめ、精錬すべき時にいる。戦後まんがとは、史上初めて、『少年・少女』を対象として成立した、世界性を持ったジャンルだった。その意味は世界史的なものかもしれない。/70年代、まんがは日常化の底で、思想として徐々に目覚めてきたのだ。自己肯定に達した少年、世界を遊び場としてかしづかせた少女、それらが世代の枠をこえて得た数百万の読者こそ、その証左となるだろう。」亜庭じゅん「NEW・COMIC戦略教程――全世界ローラー作戦の開始に向けて――」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)328P
- ^ 「評論において当時の亜庭じゅんのそれは周囲への圧倒的な影響力を持っていたし、『迷宮』がまんが批評集団であることへの信頼は、彼が一身に背負っていたといってもいい。だからこそ亜庭じゅん調の評論を自分にも書けると僕や米やんが言い張った時に、米やんは『阿島俊』を名乗り、僕は『アニメ・ジュン』を名乗るということもあったくらいで、3人それぞれの対抗意識のバランスがうまくとれていたからこそ、『迷宮』の維持存続が可能であったのだろう。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)152P
- ^ 『漫画新批評大系』第1期 通巻1号「特集・萩尾望都プチ ア・ラ・カルト」(1975年7月26日) 通巻2号「特集・水野英子NO RETURN?」(1975年11月28日) 通巻3号「特集・パロディの地平から」(1975年12月20日) 通巻4号「特集・少年マンガエレジー」(1976年7月25日) 通巻5号「特集・少女マンガの光と影」(1976年12月19日) 通巻6号「特集・チェックメイトCOM」(1977年4月10日)
- ^ 「『マニア運動体論』六回の連載はコミックマーケットの開始と並行していた。『序説』と『第一回』が書かれた時点ではコミックマーケットは構想のみ存在し、姿を見せておらず、続く四回の連載はようやくコミケットが安定していく過程に重なる。『マニア運動体論』は暗中模索で走りだしたコミケットの初期、迷宮=コミケットの共通認識として機能した。亜庭じゅんは殆んど徒手空拳の状況でこの連載を書いた」「マニア運動体論 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)477P
- ^ 「『迷宮』が次なるステップへと向かうための一つの区切りをつける号であった。だからこそここで、自分たちがまんがファン活動を行う原点となった『COM』を改めて見直しておくことは意味がある。僕などはそう考えたのに違いないのだが、特集巻頭の『朝の光の中でいましばらくの微睡みを貪るための方法論 その序説』で亜庭じゅんは、『COMを今問題にしなければならないというのも、COMがぼくらのマンガへの関わりの原点などだからではなく、無意識にCOMに原点を求めてしまうぼくら自身の弱さを拒否しなければなにも始められないからである』とそれを一蹴。加えてもう一編の『結論 チェックメイト!!COM 〜街にチェシャ猫を解き放て〜』において、『COM』をまんがそのものと重ね合わせたうえで、COMを越える可能性に言及している。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)164P
- ^ 「COMはその活動の起点である故に一度は正面から総括しておく必要があった。記憶の彼方に消えていこうとするCOMを曖昧なままにしておくことは自己欺瞞でもあった。COMに幻を見ていた自分自身を含む世代の不様を書いた痛切な言葉の連なりは、伝説と化そうとしていたCOMへの単純な懐旧の言や賛辞が多い中で、COMが読者にとって持った意味を率直に伝える数少ない文章でもある。」「朝の光の中でいましばらくの微睡みを貪るための方法論 その序説 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)546P
- ^ 『漫画新批評大系』第2期 通巻7号「特集・SFとマンガと/三流劇画ミニマップ前編」(1977年12月31日)通巻8号「特集・はみだしっ子in4D/三流劇画ミニマップPart2」(1978年4月1日) 通巻9号「特集・まんが同人誌'78」(1978年7月29日) 通巻10号「特集・花の24年組・午前1時のシンデレラたち」(1978年12月17日) 通巻11号「創作特集・同人誌作家の新地平/小特集・斬る!!」(1979年7月28日)
- ^ 「『戦後少女まんがの流れ』は、1期での活動期間中に知遇を得た少女まんが研究者、コレクター等の史料提供と協力を得て連載開始が可能となった。本文は2期を通じた5回連載となり、共同研究が基礎となるため執筆名義は『戦後少女マンガ史研究会』とした。アンカーは相田洋(米沢嘉博)が担当した。連載は完結後大幅な加筆を行い『戦後少女マンガ史』のタイトルに纏められ、米沢嘉博のまんが評論家としてのデビュー作となった。」「戦後少女まんがの流れ 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)186P
- ^ 「漫画新批評大系 第2期4号は一旦は78年12月17日に発行されているが、改訂版として翌年の4月に再発行された。この号は「総括・花の24年組・午前一時のシンデレラたち」と題して、24年組の特集を行なっている。創刊以来、精力的に取りあげてきた少女まんがの総括としての特集であり、同人以外に外部からも、中島梓、村上知彦、高取英に寄稿を依頼し、増山法恵にインタビューを行なっている。この時点での迷宮の総力を結集した号であったが、発行を優先して不十分な内容、編集となったための改訂版の発行であった。亜庭じゅんは、他の同人に原稿の全面的な手直しを依頼し、記事の入替え、レイアウトの変更を行い、全面的な改訂となった。常に不満を残していた内容の充実と、雑誌としての編集の不備を解消した号を出したいという亜庭じゅんの執念の漂う号となった。無論、自身のこの文章も改稿されている。」「総括・花の24年組・午前一時のシンデレラたち 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)254P
- ^ 「迷宮の中で三流劇画、エロ劇画に積極的に関わっていたのは川本耕次、青葉伊賀丸、そしてぼくだ。川本がこの年の六月頃には『別冊官能劇画』の編集者となり、業界につながりが出来、迷宮と深い関わりのあった村上が編集に携わる『プレイガイドジャーナル』に企画を立ち上げるなどの動きは重なっていく。」米沢嘉博『戦後エロマンガ史』(青林工藝舎 2010年4月22日)223P
- ^ 『漫画新批評大系』第3期 通巻12号「特集・NEW・COMIC」(1979年12月23日) 通巻13号「特集・パワーストーリー」(1980年5月11日) 通巻14号「ルポ特集・新雑誌は何を考えているのか?/特集・スクリーンへ!」(1980年12月31日) 通巻15号「小特集・気分はもう戦争!」(1981年12月20日)
- ^ 「問題は、まんががどう変わるべきか、なのであって、どう変わりつつあるか? ではない。流行の後追いや先取りに精力を浪費している時期はすぎたと知るべきだ。『まんがはどこまで行けるか?』と問いをたてたなら、『まんがはここまで行かなければならない』という、読者の側からの、巨大で豊かな観念世界の答を出すべき時に、ぼくらはいる。実体を持たないものを語るのは虚しい、としたり顔で言ってはならない。そんなことはとっくに知っている。だが、新しいまんがを! と言い切るなら、まんがに求めるものを明らかにすることこそ、批評の責務である。『どこまで行けるか』と問いを立てた時、読み手は無限への扉を押し開けた筈だ。だとすれば、それに耐えるのは、押し開けた者自身の責任である。それを回避するなら、ニュー・ウェーブなり〝新しい流れ〟なりを語る言葉は、また一つファッションの波をたてるに終わる。」「語られねばならないのは、全体である。まんがが、今日まで築き上げた全歴史と、ぼくらの求めるものとしての不在の未来が交錯する一点、そこにこそ、NEW・COMICはたち現われる。〝新しい流れ〟とは、70年代を通して圧殺されてきた、この不在の未来が、とりあえず放った否定の声である。それは兆しではない。〝新しい流れ〟を、否定媒介とし、のり超えた所にこそ、NEW・COMICは明らかになる。〝新しい流れ〟の鋭さは全否定の鋭さであり、それは、70年代まんがの総状況を切り裂く。」亜庭じゅん「NEW・COMIC戦略教程――全世界ローラー作戦の開始に向けて――」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)309P
- ^ 「このユニークな批評集団を僕は七七年冬、第七回目のコミックマーケットに参加して知ることになりました。当時、彼らは『迷宮'77』と名乗っていて、第二期に突入した時期の『大系』を購入、『COM』亡きあと、つまり七〇年代から八〇年頃にかけてのマンガ・シーンの波頭で、『迷宮』は批評とパロディを勇猛果敢に発表していました。『大系』を読んでいれば、マンガの『今』が見えたのです。」赤田祐一「『ぐら・こん』は、ちょっといい夢だった(中編)」『スペクテイター第25号(COMの時代 第四部)』(エディトリアル・デパートメント 2012年6月5日)147P
- ^ 「『じゃ、同人誌だけを売買する場所を作ればいいじゃない。費用は参加するサークルに頭割りすれば、こっちはそんなにかからないし、やることだって、連絡と宣伝だけだから、手間はかからない。名前はコミックマーケット、略称コミケット!』/明石さんの一言から、ここまで、おそらく15分はかかっていない。天啓のように、一瞬にしてコミケットは誕生した。いや、ふりかえって見れば、その瞬間は、20年の時を超えて、現在に至る全てを胚胎していたと言ってもいい。何の迷いも逡巡もなく決まった、“コミックマーケット”という名称。このマーケットというネーミングがすべてを決めた。」「他のメンバーがどうであったかは知らない。しかし、少なくともコミケットを運営する主体を、コミケット運営委員会でも、実行委員会でもなく、『コミケット準備会』とした時、その底に、コミケットなるものは、いつまでも手の届かない逃げ水になるという、予感は共有していたろう。」亜庭じゅん「明石さんへ――」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)420P
- ^ 「偶然にもこの時“迷宮”は、マニア運動体論で希求した開かれた自由な場を、マーケットという形で手に入れようとしていた。思想的な出自や『COM』体験からすれば、皮肉な結果ではあるとしても。では、その場に僕らは何を望んだのか。“自由な場を与えられた描き手に、なお信頼をつなぎ止めていた”と、今はいうに留めよう。たとえそれが自己投影だとしても、相当の可能性を見ていたのは間違いない。/そしてマーケットという言葉にはいま一つ、広場としての含意もあることにも僕らは気付いていた。人が出会い、交わり、新たな関わりが生まれる解放された空間。空間自体が何かを生み出すようなエネルギーをはらんだ場。米やんはむしろこちらのほうに惹かれたようだった。“アゴラ”というタームが市民権を得始めた当時、米やんが見ていたのはそうした場であったような気がする。後にコミケットを“ハレの場”と位置づける米やんの認識の萌芽は、もうこの時に胚胎されていた。」「とにかく同人誌の売買の場という単純な発想から、一気にあそこまで構想が展開したことの背景には、マーケットという設定が中途半端なモラリズムという枷を外したためであることは間違いない。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)133P
- ^ 「『コミックマーケット準備会』設立に至った経緯は、亜庭じゅんによれば次のようになる。/『マジに開催のことを考えなければならなくなった時、“迷宮”はちょっとしたジレンマに陥る。コミケットの運営主体をどうするかという問題であった。理論上はコミケットの運営は参加者自身が行なうべきだという点で異論はなかった。だが、数々のイベントを批判的に検討してきた結果から、組織は必ずと言っていい程硬直するという認識も共有されていた。“迷宮”が主催ということで立てばいいという話ではない。理想としていたのはサークルの自由連合による運営だった。だが、運営主体が暴走し始めた時のセーフティネットをどう担保するか。/そこで僕らはある姑息な手を打った。コミケットの運営を“迷宮”とは別組織にして、サークル主体に見せながら、実体として“迷宮”が運営を担うことで当面はそのポリシーは維持する。将来的にこちらが信頼できる人材が出てくれば、そちらに徐々に運営を移行していく。平たくいえば、裏で糸を引こうという発想である。準備会という名前にはそんな隠れた意図もないわけではなかった。“迷宮”はコミケットのさらに先を見ようとしていた。しかしそんなはかりごとはうまくいくわけもなく、ひょっとしたらと期待した準備集会でも、参加者はコミケットのイメージすら判然としない状態、とても運営までは頭が回らない。こちらも海のものとも山のものともつかない状態であってみれば、当然の結果ではあった。』」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)143P
- ^ 「表向き、コミケットはサークルのもの、迷宮がそれを主催するのは僭越であるという口実はあった。同時に迷宮以外には、ついにコミケットをその意味づけまでも含めて担いきる存在はないだろうという自負もあった。この二点のせめぎ合いから、出てきたのが『準備会』という聞き慣れぬ名前だったのだ。それは一回ごとのコミケットを運営するという以上に、毎回々々のコミケットの過程の果てに、幻のコミケットをいつか実現させるための捨て石だという自覚の結果であった。」亜庭じゅん「明石さんへ──」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)420P
- ^ a b 「『迷宮』の活動の一環としてコミケット準備会っていう会をでっちあげました。これも『迷宮』だというとうさんくさいと思われると考えて別の名前を作ったんですが、なんのことはない、同じ人達がやってたわけです。原田さんはまだ正式に代表にはなっていなかったんじゃないかな。多分2年目からですね。たしか何かで揉めたんですよ。それであにじゅんがじゃあ今後は役割を決めようと言い出して、その時にじゃあ原田くんがコミケット担当ねと。当のあにじゅんは『新批評大系』の担当を自認して、私は漫画大会告発の担当となりました。別にあにじゅんが無理矢理任命したのではなく、事実上そうなっていたのをはっきりさせたと云う感じです。原田さんは当時から誰よりもマジメにコミケット運営に努力していて、誰が見てもこの人が担当者だよなって感じでした。」式城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」『20世紀エディトリアル・オデッセイ 時代を創った雑誌たち』(誠文堂新光社 2014年4月30日)161P
- ^ 「なかなかヤバい話にはなるんですけれども、なぜ原田氏が代表になったかということなんですが、見ていただくとわかるとおりに、一番誠実そうに見えるんですよ(笑)。僕はたぶんそれはダメだし、米やんもそういう意味じゃあ当時はまだちょっとピリピリしてたとこがあったし。まあ米やん自身は一番若かったということもあって…それとまあ上に二人年上がいるとなると、なかなかこう前には出られません。でまあ、やっぱりこういうコミケットみたいなイベントの場合、露骨に言います、同情を買うようなタイプが一番いいと(笑)。それは俺と米やんの共通見解よ。原田氏だったらみんなが同情してくれるだろうと。ということで、まあ人格的に原田氏が一番ベストなんじゃないかと。でまあ『いちゃもん』の漫研リストを作ったのも彼ですし、そういうようなことを含めて原田氏が代表には一番ふさわしいだろうということで、代表になったというのが事実関係です。」亜庭じゅん「コミケ誕生打ち明け話」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)738P
- ^ 「ちょっと話戻しますけど、先に原田くんのほうが『学生運動が…なんたらかんたら』言ってましたけど、あれは社会性っていうよりも、むしろ当時のものでコミケットに通じるものがあるとしたら、在学当時は多くの大学、あるいは高校でも、机や椅子でバリケード作って、封鎖をしたんです学生が。で、そのなかがなんだったかっていうと実は何もなかったんですけれども、気分だけは『ここはおれたちの空間、おれたちの場所』みたいな、『解放区』という言葉がたぶん一番的確だったんだろうと思います。そこで特に何かをやったわけではないんですけれども、たまたま京都のほうでは、京都大学の西部講堂という…物置の掘っ立て小屋みたいな講堂があって、そこでですね、当時のでいうと『アンディ・ウォホール(の実験映画)』とか『頭脳警察』というバンドとか、あるいは『状況劇場』…赤テントですね、唐十郎の。ああいうものをとにかく手当たり次第にやってたと。なんで、ある種、解放区のなかで自分たちの見たいもの、やりたいものをやるというようなそのような文化が、学生運動のなかで定着していったと。その感覚っていうのはコミケットのなかにも…まあここで話せればと思いますけど、残っていただろうと。」亜庭じゅん「コミケ誕生打ち明け話」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)735P
- ^ 「一つの意識として、コミケットは、七十年の敗北の再生という命題を抱えていたし、趣味を基盤とした解放区という位置づけがなされてもいた。自由な表現が許される場とは、おのずから自由に表現できない場と対立していくことになる。拡大していくコミケットは、つまり解放戦線の拡大でもありうるのだ。もちろんそうしたことが語られることはなかったが、マンガは『ぼくら』が手にした最高の娯楽であり、自己表現であり、その無限の力はあらゆることを成し得ると信じていた時代でもあったのだ。」米沢嘉博「コミケット20年を振り返って」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)417P
- ^ 「あれは私が高校2年生の時だったと思う。当時、漫画ばかりを描いていただけの暇してた高校生にとって24〜25位の兄ちゃんの集まりは「すごく年上の人ばっかり」という印象だった。/その年上の兄ちゃん達が『コミックマーケット』という同人誌を売ったり、買ったりするだけのイベントを開くというのだ。ついてはそこで少女漫画のオークションもやるからお前、売れ。/そう言われて私は当日アラビアンナイトの格好をしたまま古い少女漫画本を次々と売っていった。何が何だかよくわからない状態である。彼らはどこかの漫画大会でなんとかという漫画が10万円で売れたのがおかしい。そんなに高値で売ったら漫画が別のものになるから安値で売ってくれとも言った。/子供だった私はそんな兄ちゃんたちが漫画という世界に生きてる人達なんだと思って、尊敬をしたものである。私もこの人達のように漫画にポリシーをもって生きなきゃあかんぜと燃えたものだ。/しかし、その後芝居の世界に入ってしまったのでコミケのことはそこまでしか知らない。当時、尊敬していた兄ちゃん達の大半はどこかへ行ってしまい、何人か残った人は物書きになっている。そしてコミケは私がかかわった初期のわずかな間を過ぎると巨大化していき社会現象にまでなっていた。/私にとってはまるで文化祭の延長のような会場で、反骨精神の旗の元に集まったバカの集団というイメージしかない。儲けることなんか何にも考えていなかったあの人達。今のコミケで一攫千金を企む若造を見て『まったく今の若いものは。』とため息をついているのだろうか。/いわゆる60年代の若者だった彼らに影響を受けた私は今でも少し理屈っぽいままだ。彼らはコミケを抱えてどこまでいくのだろう。妹分の自覚がある身としては気になるところだ。」わかぎえふ「作家アンケート」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)411P
- ^ 「サークルの総意などというものは実際にはありはしないということは最初から分かってはいたが少なくともその方向に努力するという姿勢を示すことで、その大義名分は維持し続けた。そのために事前集会、拡大集会、反省会はコミケットにとって重要な位置を占めた。全ての参加者が平等であり、仲間が作り上げるアマチュアの自由な場で、その場だからこその新しいまんがが生まれる。そこでは単なる読者でさえ創作への積極的な協力者となるだろう。」「子供っぽい理想論、きれいごとだという向きもあるだろうが、理想論を掲げないで誰が時間を使い神経と労力を刷り減すだけのことを好き好んでやるものか。」「ぼくらはそういうことをやっているという自覚は共有していた。大人の現実論を子供の理想論で跳ね返す場所がいまここにあり、回を重ねる毎に参加者は増え続けていった高揚感もあったのだと思う。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)25P
- ^ 「コミックマーケットは準備会が作るものではなく、参加サークルと一般参加者がみずから作り上げるものだからだ。そんな大原則に忠実にやってきたつもりの僕としては、目の前にあるコミックマーケットがみずからの望むものでないのなら、自分が身を引くしか方法がない。そう考えて第12回開催以前に、もう決心を固めていたのである。今から思えばそんな考えがどれほど未熟だったかいくらでもあげつらうことができるが、とにかく僕はそういって、留任を求める周囲からの意見をすべてはねのけてしまったのだ。そして辞任する以上は、それまでのファン活動のいっさいからも離れ、『迷宮』を中心とする仲間とも決別する覚悟だった。」霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)183P
- ^ 「(第1回) 当時ね、今(質問者のコミティア代表・中村公彦氏が)『創作サークル』って言いましたけど、だいたい創作サークルっていう分別さえしてなかったっていう話なんで、だから原田くんが『こんな状態では僕は…意図と違う』って言ったのは、創作サークルってけっこうあるんですよ、確かに。ただ一番面白かったのが(当時『宇宙戦艦ヤマト』のパロディまんがを描いていた) 水谷潤だったりするんで。で、彼(原田) が言ってるのは、僕らは『ぐら・こん』なりCOMの延長上に位置付けられるような作品が思ったほどには出てこなかったからだな、というふうには納得してます。(参加してほしくないサークルとして) 個人的に『あんなヤツらは…』というのはあったけれども(笑)。」亜庭じゅん「コミケ誕生打ち明け話」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)740P
- ^ 「自分たちがコミケを始めたのは、商業誌とは違う世界をつくりたかったから。それがいつの間にか商業誌の人気作品のキャラクターを使って、自分たちが好きに描き変えてしまう二次創作が出てきた。それが一部だったから良かったのが、だんだん主流となって数が増えていく。そうして同人誌でしか読めない作品がどんどん減っていったこともあって、僕はコミックマーケットの代表を離れました。」「コミケ第1世代の僕の見方では、同人誌の一次創作が少数派になった段階で『商業誌に負けたな』と。商業誌をさらに盛り上げるための同人誌という流れができてしまった。僕らのような古い世代から見ると、同人誌だけでしか表現できない世界が消失したのはとても悲しかったです。」電ファミニコゲーマー (2023年8月31日). “今の漫画編集者は“編集権を放棄”している!? 鳥嶋和彦氏×霜月たかなか×筆谷芳行『同人誌vs商業誌』白熱のトークバトルから見えてきた漫画業界の過去・現在・未来”. 2023年9月16日閲覧。
- ^ C13のメッセージは準備会スタッフとして米沢嘉博が「YY」のペンネームで書いているが、メッセージには「長い間スタッフとしてやってきた原田央男氏がコミケット12をもちまして、準備会から離れることになりました。」と簡単に記され、「代表」については全く触れられていない。『コミックマーケット30'sファイル』(有限会社コミケット/青林工藝舎 2005年7月25日)76P
- ^ C84以降の『サークル参加申込書』「コミックマーケット年表(抜粋版)」では1979年のC13より「代表に就任」と記載されている。しかし、『コミックマーケット30'sファイル』では1980年就任とあり、矛盾する。またC13時点で米沢が代表になったことを示す記録は公表されていない。
- ^ 「問題は二つ。一つ目は『お遊び』の場に変質しつつあったコミケットをどう考えるか。二つ目は数の増加に追いつかなくなり破綻しかかっている運営をどうするかだった。コミケットは決してお遊びの場を作るために始めたわけではなかった。遊びは否定されるものではないが、あくまでサブの位置にあるべきものだった。コミケットの全体が『まんがで遊ぶ』ことに覆われてしまう危惧とともに、他方ではそれが何故悪いという気分も強まりつつあった。早急に改めて方向を確認し、体制を組み直す必要があったが、しかし、米やんは何の手も打とうとはしなかった。このときコミックマーケットは前に行くことも後ろに退くこともできず、流されるままに開催を続け、立ち竦んだまま、遂には沈没してしまうことも危惧される状態だった。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)24P
- ^ 「私は参加者に『お客様』が増えていることを危惧していて、当日の安全管理の部分について準備会の中心と言われているスタッフの人たちに色々とお話をしていたんですけど『君たちが頑張ってるからいいよね』みたいな感じで、興味すら持ってくれなかった。良く言えば現場にある程度のフリーハンドを与えてくれる、悪く言えば野放し状態でした。」庄司隆彦+下山嘉彦「コミックスクウェア関係者インタビュー」『同人誌即売会メイカーズ [コミックスクウェア編]』(2024年8月13日、編集:国里コクリ、発行:よつばの。)11P
- ^ 「米やんが二代目になったのは他に適当な人間が居なかったということが理由だったが、受けた米やんは決してそれを歓迎したわけではなかった。原田の辞任は唐突なものだったし、困惑しながらの就任だったことは傍目にも分かった。」「あの時期の米やんには酷な言い方になるけれど、それでも少なくとも準備会の内部では危機感を共有し意思統一を計ることだけはしておかねばならなかったが、その部分でも米やんはネグった。亜庭じゅんの言葉で言えば『米沢は半分投げていた』ということになる。米やんのこの無責任にも見える姿勢が、遂にはクーデター騒動を引き起こすことになる。クーデター派から見れば米やんは何も決められない独裁者に見えていたのかもしれない。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)24P
- ^ 「当初のスタッフ(ロートル)と若いスタッフ(主に警備)の間で、運営に関して対立が起きるようになり出していた。きっちり警備し、管理するべきだという派と、自主性に任せるべきだという派で、それはマンガとアニメ系の対立も内包していたのかもしれない。/言ってしまうなら、そこで代表は、若いスタッフから、自分たちをとるか古いスタッフをとるかと、決断を迫られたわけで、どちらもキルなどということのできない性格上、ウヤムヤにしていたところ『クーデター』を名乗って、事務や送り先の変更を秘密裏に行ない出したのがきっかけとなって、緊急アピールの発行となった。」米沢嘉博「分裂騒動の真相」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)145P
- ^ 「その頃は米沢さんはコミケにそれほど深く関わってる印象はなかったですけどね。米沢さんは当時、まだ明治大学に籍を残しながら、すでにフリーの編集者兼ライターとして活躍されていて、『SFファンタジア』という学研のムックや、『朝日新聞』の漫画時評などの仕事に取り組んでいました。それは無記名でしたが、ですからコミケというとむしろ、亜庭さんや、当時米沢さんと共に行動していた橋本高明さん、ベルさん、迷宮の他のメンバーの方々が頑張ってる印象があります。霜月さんは、すでに準備会は離れていました。」赤田祐一「対談 70年代までの同人誌を2010年代に読む」『20世紀エディトリアル・オデッセイ 時代を創った雑誌たち』(誠文堂新光社 2014年4月30日)149P
- ^ 「川崎市民プラザの開催はかなり危険な状態が続いていました。会場が狭いというところもあって、一般参加の方々の列が解消できるのは午後になってから。とてもじゃないけどまともな状態とは言えなかった。だから『無限に拡大する必要性っていうのはないんじゃないの? 今の私達がやれる範囲をもうそろそろ超えますよ』という気持ちがありました。」庄司隆彦+下山嘉彦「コミックスクウェア関係者インタビュー」『同人誌即売会メイカーズ [コミックスクウェア編]』(2023年8月13日、編集:国里コクリ、発行:よつばの。)12P
- ^ 「結局、外の整理をやっている私たちにはものすごく危機感があったんだけど、会場の中の方には全然伝わらなかったんですよ。自分たちは中だけ見ればいいって雰囲気だったので『ちゃんと見に来てくださいよ』って言ったら『大丈夫、君たちに任せた!』っていうようなことを明石さんが言ったのも怒った理由の一つでしたね。」「体調不良になる人が増えてきて危ない状況だったので、私の一存で日大や埼玉医大などの知り合いの学漫組に救護ボランティアの手配をしていました。準備会が正式に免許のある医師や看護師を手配して、最低限の医療資材を持ち込むようになったのは晴海以降だと思います。当時の運営の中核メンバーは事故があった時の対応を何も考えていなかった。責任を取る覚悟がないんだったらやめれば? と思ってましたよ。」庄司隆彦+下山嘉彦「コミックスクウェア関係者インタビュー」『同人誌即売会メイカーズ [コミックスクウェア編]』(2023年8月13日、編集:国里コクリ、発行:よつばの。)14P
- ^ 「それぞれのスタッフ作業に中心になる人がいて、その人が自分の知り合いを集めて部署を作っているみたいな形が多かったんです。だから各セクションごとの風通しっていうのは、もう悪いとかっていうレベルじゃないですね。準備集会に行って初めて知ることがほとんどな状況でした。米沢さんはそうした横の連携をさせようともしなかった。必要があったらそれぞれスタッフ同士でやればいいでしょっていうスタンス。」庄司隆彦+下山嘉彦「コミックスクウェア関係者インタビュー」『同人誌即売会メイカーズ [コミックスクウェア編]』(2024年8月12日、編集:国里コクリ、発行:よつばの。)15P
- ^ 「当時の準備会は機能的な組織じゃなくて本当に有志の集まり。個人的な友人関係で出来ていたんです。だから僕らみたいに外から入ってきた連中は、当初からいるスタッフと繋がりができない。上の人間だけは何となくお互いに話す機会はあるんだけど、そこにぶら下がって手伝ってる連中なんかは接点すらない。作業の人手が足りなかったら自分たちで増やすしかなかったし、組織としての筋機能は期待できない状況でしたよね。」庄司隆彦+下山嘉彦「コミックスクウェア関係者インタビュー」『同人誌即売会メイカーズ [コミックスクウェア編]』(2024年8月12日、編集:国里コクリ、発行:よつばの。)15P
- ^ 「コミック・マーケットはまんがの幻影を売り物に肥大化し、何も為さないまま妙な権威をすら帯び始めている。だが、我々が望んだコミック・マーケットとはそんなものではなかった筈だ。それはサークル同士のまんがへの志によって有機的に結合した、もう一つのまんが状況=展開の契機を備えたメディアになるべきものであった。/我々はそうしたものとしてのコミック・マーケットを、もう一度結成しようと思う。コミック・マーケットがメディアとして機能しないなら、我々の手で創るだけの話だ。」「やることは大して変わりはしない。だが、我々の求めるのはお祭り騒ぎではないのである。作品へと昇華されたまんがであり、行動に結集されたまんがの意志なのだ。」亜庭じゅん「夢の明日・明日の夢 迷宮緊急アピール」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)306P
- ^ 「この頃、創作系の漫研の連中も新しいのが出てきたし、そういう流れの中で本来の同人誌、創作系だけで、もう少し小さくこぢんまりやっていこうじゃないかみたいな話も出始めて、じゃあその大コミケと小コミケをやって、定期的に、まあ2ヶ月に1回小コミケとして、年2回くらい大コミケをするのはどうだろうとか、コミケットをどうしていくかってことでいろんな方向性が語り合われた時期でもある。/結局コミケットていうのは大きくする。来る人間を全て受け入れていく。という話になる。耐えられるまで耐えようと。/そのかわりパロディもエロチックなものも、アニメもその他も全部なんでも来れる場所にしていこうと。そうすると、本来の同人誌とか創作マンガにとってはこれじゃいかんという話で、じゃあ小コミケをMGMという形にしようかと……。」米沢嘉博「代表インタビュー2」『コミックマーケット30'sファイル』(有限会社コミケット/青林工藝舎 2005年7月25日)95P
- ^ 「少なくともコミケットが仮に潰れたとしても、別に創作同人誌即売会が存続していれば、その部分だけでも救い出せることになる筈だった。あの時期のあにじゅんの取れる方法としては率直で妥当なものだったし、MGMの意図するところは米やんも理解していた。『米やんはMGMはコミケットの保険だと言ってたよ』これは米やんの死後に、米やんの言葉としてベルから聞いた。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)26P
- ^ 「巨大なものが存在することのメリットがそれなりにあるのはわかるけれど、自分たちの手に負えないサイズだと危ない状況になってくる。さっき話した通り僕個人の感覚では1日で全部のサークルが回れる規模が上限であり理想でした。だからコミケ一つが大きくなるんじゃなくて、色んな同人誌即売会が増えて広がっていけば良いと思ったんです。MGMもそうだったわけですし。コミケはこの年の12月の申込数だったらばギリギリ軌道修正できるだろうって感覚があったんです。だったらこっちでやっちゃおうぜっていうのは、今から思うと本当に乱暴な話だとは思います。それで開催の準備を始めました。」庄司隆彦+下山嘉彦「コミックスクウェア関係者インタビュー」『同人誌即売会メイカーズ [コミックスクウェア編]』(2023年8月13日、編集:国里コクリ、発行:よつばの。)16-17P
- ^ 「その後両者間での話し合いは、連絡ミス等で遅れたが、スタッフのほとんどを集めて開かれ、コミケット19を開くことが急務である旨米沢氏から提案される。川崎市民プラザの使用について、その為の条件をクーデター派が出し、それを飲まない場合、川崎市民プラザは使用できない。こちらは別会場を借りている事が示される。/米沢氏の19回めでの引退、17・18回めの会計公開をTELで条件として提示し、それに対し会計公開は新聞で行なう予定であり、20回めでの引退を考えている旨の答えがある。クーデター派はそれで考慮してみると返事をした。が、その前日に、川崎市民プラザでコミックマーケットを開催する旨の申し込み書がコミケット準備会名でサークルあてに発送されていたのだ。」コミケット新聞2号「コミックマーケットに内紛か!!」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)147P
- ^ 「このアピールの中で米沢君は、それまで一部の人間にしか知られていなかったクーデター騒動を、自分の手で公開すると同時に、クーデター派の人間を名指しで非難しました。名目は、サークルの混乱を防ぐため、ですが、アピールの内容を見る限り、その実質は、クーデター派への不信をサークルに植えつけ、彼らの動きを圧殺しようとしたものです。これまで、スタッフとして扱ってきた人間をスタッフでないと言い、自ら責任をとるべきであった警備の問題をホッかむりして『自称』警備隊長におっかぶせています。このアピールによって、コミケット・クーデター事件は力対力の争いになってしまいました。」「米沢君は緊急アピール送付以前二週間以上に渡って、自らは積極的にクーデター派と会おうとしなかったばかりか、コミケット準備会の他のスタッフを集めての話し合いの場すら設けませんでした。それを怠った上で、非常・緊急の手段としてアピールを出したといわれても釈然としないのは当然でしょう。それどころか、二人の人間の社会的生命さえ葬りかねない文章を、誰に相談するでもなく、独断で六〇〇以上のサークルに向けて出したのです。/こうした行為は、いかなる意味でもコミケット理念である自由・信頼に反するものです。迷宮がファン活動に対して言ってきたこと、述べてきた事は、まるっきり違います。権力を権力として行使することに対して、自由な個人の連合体である迷宮は、はっきりとその途はとらないとくり返してきた筈です。また、米沢君が出した第二のアピール中、コミケット・スタッフも私生活があり、そのためにコミケット運営に多少ルーズな面も出ても仕方がない。むしろそこにこそアマチュアとしての本意がある旨の記述がありましたが、このような泣き言を迷宮は漫画大会を批判する中で、否定しています。アマチュアであろうとなかろうと、一端、公的な立場を選んだ以上そんな事は理由になりません。作品の評価にプロ・アマを問う必要がないように、コミケットの運営もアマチュアだからといって、いい加減であっていい訳がないのです。そこの甘えを、少なくとも意識の上で切り捨てた所に迷宮の出発点の一つはあったのです。」亜庭じゅん「コミケット・クーデター事件について・アピール」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)599P
- ^ a b とは言え、コミケットを「ムーブメント(運動)」とする自己規定はその後も残り、2012年12月開催のC83までは「元々、ムーブメント、趣味の活動として始まったコミックマーケット」(各回ごとの『カタログ』「準備会スタッフについて」)、「一つのムーブメントとして自らを規定します。」(各回ごとの『サークル参加申込書セット』「コミケットの理念と目的」)といった言及があった。しかし、2013年8月開催のC84からは「ムーブメント」の文言が全く消え、理念として「(自由な表現の)場」「ハレの日」としての機能がより強調されるようになった。
- ^ 「米やんが開催すること以外の全てを棚上げにすることに踏み切れたのは、同人誌独自の新しいまんがというコミケットの目的として掲げてきたことを、それに特化したMGMが引き受けていることもあっただろう。MGMがあることで、自分はお祭り騒ぎにコミケットが変質していくことに目を瞑り、自由にファンの遊びに付き合うことができるようになる。」「コミケットの代表交替、MGMの開始、クーデター騒動、晴海への移動と続く、79年から81年までの2年間の慌ただしい推移の間、自分達で作り出してしまった現実を前にして、改めてその底流で問われていたのは、『同人誌即売会とは何か』そして『自分は何故即売会を開くのか』ということだった。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)27P
- ^ 「単なる売買だけではなく、同人誌を通じたコミュニケーション、出会いはもちろんのこと人と人との出会いも場の機能に含まれています。このことが、コミケットを、マンガ、アニメファンの社交場にしているのかもしれません。/お祭りとしての性格もそこから生まれて来るでしょう。「祭り」とは日常の中に一日現われてくる『ハレ』の日のことです。祭りに参加する者達は、その祭りをより面白く、よりすばらしい物にするために、祭りと祭りの間の日常を準備期間にしなければならないと思います。云うまでもなく、それはサークル活動であり、個々の創作活動のことです。祭りをいかにすばらしい物にするのかは、参加するサークル、個々人の問題でもあるのです。」米沢嘉博「コミック・マーケット設立主旨 コミケットマニュアル」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)317P
- ^ 「コスプレやパロディといった手段を通して彼らは(全員ではないにせよ) つかのまフィクションの世界の住人となり、祝祭のなかで自己は忘れ去られる。しかしそれは迷宮が『マニア運動体論』の『序説』において、『僕等は僕等の内側にマンガを一つの別な空間=世界として持っているが故に『マンガ世代』なのであ』ると規定したこととは、似ているようで天と地ほどの開きがある。『僕等』のなかの『マンガ』世界は自己と対峙するものとして存在し、それを楽しむ客体とするため『言葉』をもって捉えることが『僕等』の採った方法だったからだ。身も蓋もない自己の没入など、自己放棄となんら変わりがない。」原田央男「MGMに参加したこともないくせに…あるいは亜庭じゅんについて」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)748P
- ^ 「(ぼくは)創作まんがを中心に小さなマーケット(MGM)を開きました。これが非常に空いています。だから?というような世界です。そこではこういうコミケット的な環境というか熱気というか、そういうものは、生まれ得ませんでした。別なものはあるとは思います。自画自賛になるかもしれませんけれども。ただ、それはあくまでコミケットが持っている、もの凄くなにもかも溶かし込んでしまうみたいな、ま、コミュニケーションの非常に大きな力、それはどこまで真摯なコミュニケーションであるかは、ぼくは疑問に思っていますけれども、確かにそこでもの凄く仲間意識ができるということ、その力はなかったです。つまりコミケットが今持っているジレンマというのは、一つには、数が今のコミケットの楽しさというか面白さというものを保証している、そこの部分をどうくぐり抜けていくかが準備会にとっても、おそらく参加者にとっても一番大きな問題だろうと思います。」亜庭じゅん「亜庭じゅんの発言 1981春・コミックマーケット反省会」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)22P
- ^ 「基本的に会社は『コミックマーケット』という集会に事務所、機材、倉庫、連絡機関などのサービスを行い、コミケットは会社に対してカタログ制作の為の情報を整理し、与えているという関係だと考えて下さい。ただ、この会社はあまり営利を目的としていない性格があるため、様々な問題をはらんでいます。」米沢嘉博「即売会と会社と準備会と経費について」『コミケット20's』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)329P
- ^ 「なぜこの会社ができたかっていうと、それまで一般参加者に向けて配置図とサークルが入ったやつをただで配っていたんだけれども、コミケが大きくなって、かなり小さい字でA3版の両面にしても入りきらなくなったんで、どうするかって話したときにカタログにしようって。」「しかもこれが8000とか1万部近く売れるから、売上が200万で、印刷原価引いても何十万か残っちゃう。そうすると税金の申告がまずいだろう、どうするかって話になって、これは会社にして申告するしかないと、あともうひとつはコミケットへの問い合わせが非常に多かったんだけど、電話で問い合わせを受けられる場所が無かったんですよ。その頃は一般からの問い合わせも含めて全部個人で受けてた。しかもアパートの共用電話だから非常に問題が多い。これはいかんということでじゃあ会社にしてそういう窓口を設けようと。」米沢嘉博「代表インタビュー3」『コミックマーケット30'sファイル』(有限会社コミケット/青林工藝舎 2005年7月25日)125P
- ^ 「コミケットはアマチュアの『ボランティア』がやるものではなくなってしまった。もちろん、準備会の方では、コミケットを主催・開催する準備会と会社は別ものと言っているが、同じ人間がやっている以上、それは、口実ととるしかないだろう。はたで見ている限り、コミケットは明確に企業として歩み出したと言うしかない。」「企業化のメリットというものは確かにある。少なくとも、対外的な折衝では、通りはよくなるだろう。だが、伝えきく企業化の理由というのが、〝税金対策〟だというのなら、それは、ちょっとおかしい。〝税金対策〟が必要なほどにコミケットが利潤をあげているのなら、まず第一の対策は、利潤減らしである筈だ。それをせずに会社化へ走るのは何かが間違っているというしかないだろう。」「大局的に見れば、コミケットの方向は、企業化へと向かっていくものであることはわかる。」「だが、問題は、このプロセスが殆んど秘密裏にと言うか、オープンな形で展開されて来なかったことにある。コミケットの上の方で何やら、いつの間にか、決まり、動き出してしまったというのが実情である」「二言目にはサークルが、参加者が、というコミケットの甘いせりふと、実行段階での、独裁的な突発性、もっとロコツに言えば、下のことを無視した、二枚舌的やり方が、昨年問題になった、コミケットの退廃と密接にかかわっているのではないか?」「少なくともコミケットの会社化という今回の一事は、たとえば、このことによって公然とコミケットで食っていく人間が登場し得るという余地を与えたことだけでも、コミケットが掲げて来た理念の再検討を迫られる質のものである筈だ。」「即売会で食っていこうなどと考えるヤカラは甘えているという以上に、意図していようと、いまいと、奉仕者ヅラをする限り、詐欺を働いているのと同じだと、ここではっきりと断言しておこう。」亜庭 じゅん「SHASETSU 即売会のまわりが、どーにも生グサくなってきた…」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)669P
- ^ コミケットは3共同代表制に移行した後の2013年8月C84より、理念から「非営利」を削除した。
- ^ 川崎市民プラザでの開催は83年秋までの一年半だった。MGMは以後会場を川崎市中小企業婦人会館に移しそこに定着するが、「通常」のMGMと並行して、テーマを設定した「特別版」MGMを不定期に都内の産業会館で開いた。
- ^ 「ミニ・マーケット・プログラム1号で、ぼくは、この運動の最終的な目標を、全国的な同人誌メディアの設立におくと書いた。それ自身、特にMGMに固有のものではない。迷宮が、コミック・マーケットを開始した時点で、即売会のはるか彼方に展望していた目標である。むしろ、コミック・マーケットが、自らカオスとしての『場』に居直り、そこに自足し始めたからこそ、ミニ・マーケットという形で同人誌メディアへのベクトルを引き受けざるを得なかったと言える。」亜庭じゅん「あの亜庭じゅんがMGMを語る」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)591P
- ^ 「現在『マンガ世代』とはそのような自己を没入しうる者であり、オタクとも呼ばれる彼らが主役として迎えられる状況をコミケが作り出してしまった。だが『そういう場を最初に作り出したのはおまえたちではないか』と言われれば、全面降伏はしないまでも迷宮に立つ瀬はない。/しかし亜庭じゅんであれば、話は別だ。迷宮の名前でMGMを主催し、『これこそが迷宮のやろうとしていることだ』と言えば、数のうえではどうであれ、迷宮=MGMとして『迷宮がやろうとしたのはコミケではない』と言い切ることができる。つまりコミケに対して迷宮が裏切ったのではなく、迷宮に対してコミケが裏切ったというわけだ。もちろんそれを言うために亜庭じゅんがMGMを始めたわけではないし、MGM自体コミケを批判こそすれ、敵対するものではなかったが、迷宮の始めた運動を具現するものとして、MGMが存在した意味は少なくない。実体に即してみても、初期のMGMは亜庭じゅんみずからによる『マニア運動体論』の実践であったし、MGMの活動とはまさしく迷宮の活動であった。困難を抱えた小さな運動であっても、その意味においてMGMは、コミックマーケットに対して互角に屹立する即売会であったということが可能なのである。」原田央男「MGMに参加したこともないくせに…あるいは亜庭じゅんについて」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)748P
- ^ 「コミケットはもはや趣味でやれる範囲をこえている。しかもなお、『趣味』でやらねばコミケットではないだろう。アマチュアでもプロでもない第三の場を創ること。『同人誌』でも『商業誌』でもない既成概念の転倒。人が人と作品を通して媒介される場――コミケットの道は本来ここにあった。スタンスは、『創る』の一点を軸にしていた。プロもアマもでは決してない。プロでもない、アマでもない、否定形を通しての未来。それがコミケットの視線の行く先、見すえた焦点であった。それを見つづけるのは、『趣味』かもしれない。そして、この視線を、『プロもアマも』に移行させるのは、はっきり言って悪い趣味である。その『趣味』の悪さが、コミケットをダメにしたのだ。」亜庭じゅん「コミケットは趣味が不自由なのである」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)634P
- ^ 「そしてコミケの誕生以後、同人誌即売会の普及によって創作同人を取り巻く環境は一変。作家と読者をつなぐ出版社と取次会社のシステムとは別に、即売会(や同人誌専門店)が作り手と受け手とをつなぐようになり、まがりなりにも創作同人が作家(プロとかアマとかではなく)になりうるサイクルが成立する。しかしファンクラブから二次創作サークル、コスプレイヤーまでもが押しかける同人誌即売会の盛況のなかで、そのような創作同人はむしろ少数派にとどまり、同人誌即売会の創出を画策した『迷宮』の目論見は、肝心要の部分においてはぐらかされることになった。」原田央男「まんが同人活動と『日常』」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)32P
- ^ 「私が同人誌活動をはじめたのは70年代の末から。いまでこそ漫画ファン以外にも知られ新聞、テレビなどでも報道される同人誌即売会だが、当時はごくわずかの知るべき者たちのみが知るイベントだった。/なかでもMGMは創作漫画の同人誌だけの即売会で、規模は200サークルちょっとと小さかったものの会場の熱気がどんなものであったか伝えるだけの文章力がないのがもどかしい。その代表者が亜庭さんだった。コミティア創立時にカタログ担当のスタッフだったとき、インタビュー記事のために江古田の喫茶店で2時間ほどお話を伺ったことが忘れられない。」山川直人「亜庭さん」『地球の生活』閲覧日2014年5月2日
- ^ 「古山が一番のってた時期ってのは、MGMを川崎市民プラザでやってたときじゃないかな。彼の『ヤッターペンギン』をはじめ『ジュリーがライバル』『御遊戯』『USHI』とか、あの辺の本がボコボコ出てきて、何かおかしなことが起こるんじゃないかって気がしたでしょ。即売会のたびに挑発的な本が出てね。」「あの頃が一番面白かったね。ただ、残念だったのは、あれらが芽で終わってしまったこと。ちゃんとした形になる前に終わってしまったことだ。あれらがうまく育っていたら、今の同人誌はもうちょっと違うものになっていただろうと思うよ。連中が年齢的に横並び一線で、大学卒業と同時に分散してしまったのが不幸だった。あの頃はつっぱってたよ。俺たちの漫画が一番だって。」亜庭じゅん「敏感な読者を集め 挑発的な即売会を」(インタビュー・聞き手/山川直人)『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)684P
- ^ 同人誌即売会で一般にカタログと呼ぶものはMGMではMGM新聞と呼ばれ、活発に各種記事が掲載されたが、90年代に入ってから徐々にサークルカット中心のカタログになっていった。「実はカタログの記事に力をいれるというのは、MGMが始めたことなんです。昔から参加されている方はお分かりかと思いますが、当初からMGMはPRカットと記事の双方に重点をおいて作ってきたつもりです。それが今のようになったのは、単に回数が多くなってきたんでやってられなくなったということと、企画のアイデアが出なくなったとそれだけのことなのです。ただ、MGMの場合、カタログは読者にサークル情報をできるだけ提供するものだと考えています。もちろんスタッフ側からの主張も言いたい時には言いますが、基本的にカタログはサークルと読者の間の交換器のような役割を果たすものと位置づけています。ですから、カットのテーマにしてもなるべくサークルの傾向や力量がわかるもの、サークルと読者の対話のきっかけになるようなものを選んでいるつもりです。」亜庭じゅん「MGM62『60メモリー』より」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)816P
- ^ 堀田清成(ほったゆみの夫)と、名古屋大学で漫画研究会を立ち上げた森博嗣らが中心のサークル。1978年から1982年まで名古屋で10回の『コミカ』を主催した。1980年にサークルは解散し『世紀末出版』、『同人とぐる』、ささきすばるが主催する『JET PROPOST』に分かれたが、解散以後もコミカの主催は堀田清成を中心として『グループ・ドガ』名義で続けられた。
- ^ 『せえる』は1980年から1986年まで四国・松山で10回開催された。『せえる』には主催者は存在せずスタッフのみが機能的に存在するという形をとり、即売会を参加サークルを含めた全参加者が主体的に作るものとした。「'79年に始まった漫研『まんがせい』は『まんがせえる1』を主催した後、スタッフはそのまま据置き、同人の交流、向上の目的を包括するものとしてサークルから即売会へと発展解消した。」「せえる1から 少なくともせえる10の10日前まで」『まんがせえる ファイナルレポート』(1986年8月17日)62P
- ^ 「――本を売る、買う…という行為自体が同人会と読者、同人会と同人会のコミュニケーションであると思います。その日、1日ちょっとお話ができるというだけのコミュニケーションは第二の事に思えます。本を買い、手紙を出す、その返事を出す、こういった努力を読者も同人会もしなければ、本当のコミュニケーションにはならないと考えます。即売会当日のあいさつを僕は信じることができません。また…即売会がどんな場を作ろうとしても、同人誌や漫画のレベルは高くならないと思います。同人誌のレベルを高めるのは同人誌であり、漫画を高めるのは漫画です――こういうむなしさが即売会にはあるのです。/MGMがコミケットからおまつりさわぎをケズリ取ったのは正解ですが、そのため本が売れなくなったとしたら、即売会として、いえ、コミュニケーションの場として失敗だと思います。/入場者をへらし、静かにして、しかも本は同じだけ売れる……これは不可能なことではないはずです。/とにかく、MGMスタッフを遠くから応援したいと思います。」森博嗣・JET PROPOST「MGMへの投書」『MGM新聞4号』(MGM 1981年9月20日)2P
- ^ 「時は昭和51年夏――それは勿論、松山にはな〜んにも無かった頃で、しかも、今や30回目にして3400ものサークルを内包する東京のコミックマーケットが、まだ2回目、わずか50数サークルの時代であった。――東京へおのぼりさんをした我々は漫画大会なるものの片隅で『同人誌即売会』なるものと遭遇する!!」「2年後自分達も『まんがせい』という漫研をつくりつつ他の同人誌を求めてやまず、東京の片隅の古本屋さんに同人誌が置いてあると聞き、夜中に電車を乗り継いで駆け込んだのもこの頃である。」「とにかく同人誌に、仲間に飢えていた。大阪コミール、コミックフェア等、若さにまかせて、金をつぎ込み各地の即売会に東奔西走しながら、松山にもいるはずの漫画同人と一緒に、自分達が見てきたような交流の場をこの地元に作りたいと強く思うようになる。そして、それは自分達もサークルであり、描き手である以上、上から与えられるものではなく、共につくる即売会でなければならないとも思った。『参加サークル』という名の“客”には、自分達も他のサークルもしたくなかったし、何よりも自分がサークルとして参加したいと思えるような即売会でなきゃ嫌だった。」「総括」『まんがせえる ファイナルレポート』(1986年8月17日)60P
- ^ 「せえるにとって仲間が、共に進んでいく仲間が必要であるなら、そのための共通基盤は、一回ごとのせえるだけではなく、せえるのプロセスこそ重要な拠り所であるでしょう。なんのことはない、ぼくがせえるに魅かれる半分は、このプロセス=ドラマへの期待である訳です。」「せえるが生成し、息づき、一回ごとに前へ進んでいくベクトルを持っていることを明確に打ち出すこと、一回一回のせえるが何をつかみ、何を失い(時にはです)、どこにいるか検証し、実感させること、――ちょっと宗教めきますが、せえるの流れのなかに、参加者をまきこんでいくこと、それが、何よりもせえるに求めたいのです。/抽象的にしか言えないことは、こちらの力不足です。要は、あなた方も相対的な高みにとどまっているものではないと、あなた自身、せえると共に歩んでいるんだというそのことを、示すことではないかと思います。」亜庭じゅん「書簡 亜庭じゅんからまんがせえるへ」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)648P
- ^ 「手前ミソでいうのではない。少なくとも、相当年のいった人間にとって、MGM程安心できる場所はないのではないだろうか。何よりそこに集まる本のレベルが、MGM程の水準に達している所は少ない。考えれば、当然の話である。東京という、ともかくやたら同人誌がウジャウジャいる地方の中で、それなりに意欲的なサークルが集まっているのだから、レベルは高くならない方がおかしい。確かにコミケットには質の高い本も出る。だが、数の比率から言えば、おそらくMGMの方が高い。まして、そこに名古屋からセレクトされた部分が加わってくるのだ。マジに買っていけば、出ている本の半分は買うしかないかもしれない。」亜庭じゅん「SHASETSU 1983→1984、MGMにいまいち元気がない――!?」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)625P
- ^ 「最初は創作同人誌即売会というコンセプトが奇異に感じられたのか「人の来ない即売会」と言われたが、徐々に参加サークルも増え、良質の同人誌が高い密度で集まる場を誇るまでになり、MGMにしか参加しないというサークルも現われてきた。名古屋のコミカの主催サークルだったJET・PROPOSTは参加サークルカットに『ぼくらの本はMGMでしか売らない』と書いていた。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)26P
- ^ 「遊び場ばかりを求めてくる人間の不満は、あっさり拒否しよう。しかし、まんがそのものが変わってしまいつつある状況の中で、MGMは、有効な対立軸を見出しているとはいい難い。そして、これらの変化に対して、選択を求められる時期はそう遠くない日にやってくるだろう。/コミカの終了は、これらの変化への拒否も含めた、コミカの選択であったと思う。年寄りめいた言い方だが、即売会一つやるにも、生きてくことのしがらみは、それなりにふりかかってくる。コミカの結論は、中年期へとさしかかろうとする人間には、けっこう魅力的であったりもする。」「創作グループの手で始まり、その同じグループがリードする中から、独特の同人誌状況を作り出し、即売会――コミケットが始まった時、こうあろうとしたコースを、その通りに走って行った。そして、コミカの中から育ったサークルが、それぞれに独り立ちの活動を開始し、各々のカラーを主張し出した、まさにその時に、コミカは終了した。あたかもコミカの役割そのものが終わったとでもいうように、半面の真実でもある、ドガ=コミカの役割は終わったとも言える。」亜庭じゅん「SHASETSU コミカの終了は同人誌即売会への衰退の予兆となるのだろうか?」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)611P
- ^ 「実は、せえるを10回で終える事は、考えた末の結果だが、いつか無くなるのなら、一番“らしい”時に終えようという打算も少しあった。今ピリオドを打つのと、多分、非難も反応も、たとえば5年後に終えるのと同じだろうし、また残せるものも同じであろう。1回目から10回目まで、せえるのつくりたいものが同じであったように、以後、回数を重ねても変わり得ないだろう事は、せえるのみんなならよく知ってくれていると思う。/終えると伝えた時の、電話や手紙でのたくさんの手厳しい批判や、寄稿いただいた亜庭氏に代表されるような意見が、スタッフには嬉しかった。ファーストフィナーレを一番怒ってくれた人達こそが、実は、せえるが無くなっても無くす事のないものを心の中にしっかり抱いているのに違いない。/せえるがつくりたかったのは、“形”ではなく、“魂”だった。残したかったのも、それだけだ。せえるという動きが行きつく先など誰も考えなくていい。目的は、行きつく事でなく、動かすものだったのだから。」「“好きな即売会”は、求めるものではなく、自分でつくるものだと気付いて、我々が6年前せえるをつくったように、みんなも、そう知ったからだと思う。それは何も、スタッフになって即売会を新しくつくる事ではなく、今あるものへの働きかけ一つで動いていくものだと。」「ファーストフィナーレが最初の、せえるとしての形に別れを告げる幕だとしたら、次の幕開きは、なんらかの形で必ずある。それこそが幕を降ろし、今度はみんなの中のせえるを育てていく為の理由なのだから。」まんがせえるスタッフ一同「総括」『まんがせえる ファイナルレポート』(1986年8月17日)69P
- ^ 「キャプ翼、星矢、トルーパーの三大勢力を中心に女性やおいサークルは、人気作家を生み出し、その魔力を背景に豪華な本作りと大部数発行というバブルに向けて本格的に走りだしていく。」「各地で開かれる即売会はどこも盛況で、中堅、大手イベントも精力的に回を重ねていく。バブルという時代を背景に、自粛ムード、宮崎事件、手塚治虫の死などの負の波を一切寄せつけなかった同人誌業界は、さらなるバブルに向けて走り始めていた。」米沢嘉博『マンガ同人誌エトセトラ'82-'98』(久保書店 2004年9月25日)139P
- ^ MGMが拠点としていた川崎市中小企業婦人会館はサークル数100から150程度で最適な会場構成となる広さだった。参加希望が300になろうとする状況をこの会場で捌くことの無理は明らかだったが、規模の拡大はMGMの変質を招くとしてあくまでこの会場に踏みとどまった。「実は(自分は) MGMという即売会やってまして、そこで感じたのは200(サークル) を超えるとちょっともうサークルは、一つ一つは目に入らなくなる。単純に200って、20が10 倍になっただけじゃないんですね。倍々ゲームで負担が増えていくんで、それが(現在のコミケは) 5万(サークル) なんてなんだろうと思うんですけれども。そういう意味ではアンチームな関係をサークルなり参加者なりで作ろうとすると、ある程度の規模の拡大はあきらめざるをえない。規模を大きくするんだったら、ある程度機械的にやる部分がどうしても出てくる。」亜庭じゅん「コミケ誕生打ち明け話」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)739P
- ^ 「プロ/アマの二分法をとり払い、プロダムなんか知らないよ! を合言葉に、まんがのオリジナルな流れを作りだそうとしたのがコミケットでした。」「しかし、同人誌から自主出版へと位置づけられる即売会の目論見は、見事に外れました。今や、同人誌という言葉はイメージの内実をこっそり代えて大手をふって飛びまわり、商業誌の一部は、そのうわずみをすくいとって新たなセグメントを考え出してくるといった有様です。そして、その商業誌によって増幅された同人誌・同人誌まんがのイメージが、新しい描き手の腕と頭を縛っていく……。忘れられたのは、裸のまんが表現であり、覆っているのは、同一化の波なのです。/まんがはまんがをマネして作られると言ったのはやまだ紫でした。今、同人誌は同人誌をマネして作られると言いましょう。そして、同人誌とは、『好きなものを好きなように』描くための、錦の御旗であり、唯一絶対の盾、口実なのです。平たく言えば、『自分が楽しんでいるんだから、いーじゃない』!です。即売会を始めとして、同人誌をとりまく環境は、この一言をひたすら保障すべく仕組まれています。あなたは同人誌を楽しくやっている。私は、あなたを楽しませてお金をもらって、また楽しい。だから――いーじゃない!!/まったく!/撃ってみたいのは、この前代未聞の自己肯定。安住しきっている自己満足です。特に80年代に入ってからの風潮とはいえ、これはちょっとあんまりだ。そんなもんじゃないでしょう? 描くってことは」亜庭じゅん「みんなでうまくなろうやんけ!! 1」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)696P
- ^ 「コミティアにとって、MGMは大切な先達でありました。何故ならコミティアはまさにMGMの模倣から始まったからです。それは単に『創作オンリー即売会』の嚆矢としてだけでなく、マンガを変革しようという意志を持つ運動としてのです。/MGMが最も輝いていたのは、80年代前半の川崎市民プラザという会場で行われていた時代。当時でも200サークル前後だったと思いますが、そこに全国各地から集うキラ星のような才能ある描き手たち。彼らは互いに刺激しあい、より面白い作品を描こうと腕を磨き、毎回新作を持ち寄りました。20代前半の私は夢中でその本を買い、貪る様に読みました。私にとって理想と思える即売会の姿がそこにあったのです。そこから広がった交流からコミティアが産まれ、いつの間にか27年が経ち、私たちはいま此処にいます。まさにコミティアは、『迷宮』〜コミックマーケット〜MGMという、源流から生まれた遺伝子を受け継いでいます。」COMITIA95 ごあいさつ「MGMがなかったら、コミティアも生まれなかった、という証明」(中村公彦)
- ^ ばるぼら (2020年9月4日). “コミティア―マンガの未来のために今できること 第2回/コミティアの歴史―存続が危ぶまれる今、問い直される「コミティアとは何か」”. 2023年9月12日閲覧。
- ^ MGM37のMGM新聞に掲載された、1987年11月8日開催のコミティア8の告知広告は「くらべてください COMITIAとMGM」と煽り、続いて、MGM39のMGM新聞に掲載された、1988年3月13日開催のコミティア9の告知広告は「日本最大」を前面に出し「今、日本で一番大きい創作同人誌即売会 COMITIA9 366サークル」と謳っている。『MGM新聞37号』(MGM 1987年10月11日)45P/『MGM新聞39号』(MGM 1988年2月21日)35P
- ^ 「商業作品のファンによって構成されるファンクラブや二次創作サークル、コスプレイヤーと同様に、それの展開する作品ジャンルの穴を埋めることで、創作同人は出版社を補完するアマチュア作家として機能することになったとさえいってもいい。なんのことはない、出版社を頂点とする『まんが業界』からの決別を目指したはずの創作同人たちは、みずからしっかりとその業界のなかに取りこまれていたわけだ。『コミックマーケット』にしても『企業ブース』を設けることで逆に『業界』をそのなかに取りこんだように見えるものの、参加サークルの大半が二次創作サークルやファンクラブで占められているということは実質、業界の一部になってしまっているということにほかならないし、『創作』ならぬ『自主制作』のための即売会を謳う『コミティア』も、出張編集部を取り入れるなどして業界との融和のなかに存続の道を探っている。」原田てるお「まんが同人活動と『日常』」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)33P
- ^ 「20代の頃、特に前半はよく創作漫画即売会のMGMに顔を出していた。私の漫画自体は未熟で手にとってもらうことも少なかったけれど、MGMという場は大好きでした。小さな会場でそこに出展している作家さんの漫画を全部見てまわるとか、そんなことも出来た。/実験的な開催もいろいろあった。MGMレディースをお手伝いしたこともあったっけ。当時、コミケもコミティアも少しだけ参加したことがあるけれど、MGMへの参加回数には及ばない。ヌルいと言われてもやっぱり心地よかった。」「私はコミケを否定する気は全然ないですけれど、MGMは私にとっては故郷のような懐かしさがあります。」なせもえみ「MGM100〜亜庭さんに寄せて〜」『MGM100記念号 亜庭さんありがとう』(木の実荘企画 2013年1月27日)
- ^ 「それでもMGMの開催を重ねることで亜庭じゅんは同人誌即売会を『日常』に取りこんでみせ、最後まで添い遂げた。日常をまんがに捧げるのではなく、みずからをまんがと同等の存在として、日常のなかで両立させたのである。確かに日常をまんがに捧げてプロ作家になってしまえば同人作家に追随は出来ないかもしれないが、同人なりに『量』や気迫をフォローしつつ新たな作品世界を開拓する方法があるのではないか。創作の困難さよりも好きな作品に追随する二次創作の道を選んだ多くの同人たちを尻目に、彼はその方法を模索しつつ、まんがと対等に向き合う同人であり続けたといえるだろう。」原田てるお「まんが同人活動と「日常」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)34P
- ^ 「まず同人誌ありき。コミケットが始まった時、各地にある同人誌を読んでみたい、サークルと話をしてみたい、自分たちの同人誌を人に読んでもらいたいといった原初的な欲求が『理念』などより先にあったことはまちがいありません。コミケットは、サークル、読者と同じスタンスに居続けることで、共にマンガの未来を目指そうという『運動』でもあったのです。それから20年が経ちました。仲間は増え、同人誌は山のように集まり、同人誌と商業誌、アマとプロの垣根は壊れようとしているようにさえ見えます。それは、コミケットの『成果』であるのかもしれません。が、同時に、夢見ていたものとは何処かズレてしまったという想いもあるのです。マンガが、同人誌が、そうして容器としてのコミケットが、自律し走り出した時、誰にも止めることなどできはしない流れとなってしまっていることに、気付かざるを得なくなったといってもいいでしょう。」「作品が、本が、言葉が、時代がコミケットに変わることを要請しているなら、自然に、そして意識的にコミケットは変わり続け、少しでも先に行こうとしていくことになるでしょう。コミケットだけでなく、即売会が、同人誌が、マンガが、変わってもいくはずなのです。惰性とあきらめではなく、好きだからこそ、望むべき姿を求めて、積極的に関わっていくべき時が来ているのかもしれません。」米沢嘉博「コミックマーケット48 代表あいさつ(コミケットカタログより)」『コミックマーケット30'sファイル』(有限会社コミケット/青林工藝舎 2005年7月25日)176P
- ^ 「コミケットは常に様々な問題と直面しました。有害コミック規制、児童ポルノ法、税金問題、著作権問題、さらには実際に発火物を使用した事件まで。それは急激な規模拡大によって否応無く、個人の趣味の集会レベルから、社会現象として扱われるようになった宿命でした。『問題はいつもコミケットから起こる』とご本人がよく自嘲気味に呟いていたのが思い出されます。それでも『自由な表現の場』という最後の一線を守って、ある時は積極的に、ある時は上手くバランスをとって対処することで、コミケットは同人誌全体にとっての巨大な防波堤で有り続けました。その部分にこそ米沢さんの代表としての強い意志があったし、その功績はどれほど評価してもし過ぎることはないでしょう。」「米沢さんはかつてコミケットの出発点を『マンガの未来を目指そうとする“運動”であった』と書きました。まさに氏は、コミケット準備会という巨大な組織のなかで『運動体であること』を体現し続けた人でした。」COMITIA78 ごあいさつ「コミケットが『運動体』であるということ」(中村公彦)
- ^ 「『歴史にif〜もしも〜はない』と言いますが、このifほど、後のマンガ界に影響のあるifはないかもしれません。『もしも、コミケットが初代代表から二代目の米澤嘉博氏に引き継がれなかったとしたら?』」「『もしも、米澤さんが二代目コミケット代表にならなければ?』=『今の同人誌文化は存在しない』とはっきり言い切ることが出来ます。それ以後のコミケットとは、創造のカオスを望んだ米澤さんの理念そのものだからです。同時にそれを守り育てるための様々な歪みや軋みを引受けられたのも、独特ののらりくらりとした個性を持つ米澤さんならではでした。」COMITIA87 ごあいさつ「コミケット初代代表・霜月たかなか氏との対話」(中村公彦)
- ^ 「『個人の想いだけ、気持ちだけだと、まぁ状況は動かないですよね。で、状況を動かすためには、ムーブメント、運動として位置づけて、戦略的に動いて行かなければいけない。だからコミックマーケットって……戦略的な部分っていうのは最初からありますよね。』昨年7月6日、30周年記念調査の締めくくりとして、米澤代表にインタビューさせていただきました。まさか今年、こんなことになってしまうなんて思いもせずに。『マンガで革命を起こす』という、スタッフ参加者聞き取り調査で出た発言については、『そうではないんですよ』と米澤代表は即座に否定されました。しかしそれに続く発言は、これはやっぱり『革命』なのでは、と思える内容のものでした。『ただ表現っていうのは人を変えますから、人が変われば社会、世界も変わって行くっていうのはありますけども。……、自分たちの場、そういう表現の場みたいなものっていうのは、小さい場所でも確保していって戦線を拡大していけば、解放区が生まれていくんじゃないか……。』」杉山あかし(九州大学比較社会文化研究院助教授/九州大学コミック文化研究代表)「追悼 米沢嘉博」『コミケットプレス総集編5』(コミックマーケット準備会内『PRESS』係 2009年8月14日)47P
- ^ 「マンガっていうのが、大人の読むものでなく一段低く見られていたころに米沢は、マンガを文化として認めさせようみたいなことを真剣に考えていて。それが少しずつでも実を結んだから同人誌即売会っていうのが、ここまで発展してきたと思う。流行りのひとつにしないで、文化にまで持っていこうとする、意思が代表として一貫してあった気がする。その成果が今のコミケットだし、あと世界的に日本のマンガっていうのを広めたひとつではあったと思う。好きなだけじゃなくて、文章書けて、なおかつ効果的に発信できるっていうプロデュース能力に長けていたと思います。」安田かほる「共同代表にインタビュー」『コミケットプレス総集編5』(コミックマーケット準備会内『PRESS』係 2009年8月14日)51P
- ^ 「コミケット、特に準備会は、普通の組織論から見ると変な所が多いと思う人がいるのではないだろうか。/この源流はこの開始時のいきさつや迷宮の理念、そして70年代という時代の気分(反権力、反マスコミその他諸々)にあるのだろう。20年経った今見ても当時の気持ちの反映が随所に色濃く残っている。いや、むしろ、20年という時間、そして色々な大変動を繰り返していながら不思議なくらいよく残っていると言うべきであろう(批評誌か何かにコミケットは70年代そのままだと書かれているのを読んだことがある)。これは昭和56年の分裂(この頃はまた後日)後、成文化された『理念』と『目的』により規定されたことにもよるのだが、最も大きなものはやはり米沢氏の人柄によるものであろう。これだけの大組織(組織じゃないってば)になれば、やり方次第でいくらでも権力を振るうことも可能であるが、未だ一読者の立場を前提に代表職をこなしながら、飄々と本を買いに行くのである。『面白いこと(物、本、出来事)が無ければやっている甲斐がないじゃないか』という初期の気持ちと『理念』『目的』に表された米沢氏の気持ちのままに続けていることが今のコミケを形作っていると思える。/準備会は有志の集まりであり、全て信頼関係のみにより成り立っている。その信頼関係の核としての米沢氏の存在があり、今や米沢氏以外ではコミケの運営は不可能かもしれないし、責任を負っている分、発言も重いのだが、絶対に『雲の上の人』になりたくないと思っていると僕は確信している。」Mr.A「コミケット自分史」『コミケットの歩き方Ⅴ』(OB会 1995年8月)7P
- ^ 「MGMは1980年8月、〝まんが・ミニ・マーケット〟の名前で誕生した。開会の直接のきっかけとなったのは、コミケットが肥大化し、コミュニケーションどころか、本の売買すらこころもとなくなるという悲惨な状態におちいり始めたからだ。コミケットの言い出しっぺである迷宮の一つのいわゆるケジメであり、機能マヒしたコミケットへのアンチテーゼとして、MGMは始まった。」亜庭じゅん「SHASETSU 1983→1984、MGMにいまいち元気がない――⁉」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)624P
- ^ 「あにじゅんの死後、『ぼくは他の何を信じられなくなってもMGMだけは信じられる』と米やんは言ってたよ、とベルから聞いた。ぼくは米やんの孤独をうっすらと感じた。そして米やんはMGMの何を信じようとしていたのかと考えた。コミケットの喧噪のなかに居ながら、米やんが信じたかったのは、迷宮の、そして即売会の始まりのあの時期、あにじゅんや原田央男たちと幾晩も徹夜で話した時間と、自分がコミケットの維持のために失ってしまったもの、あにじゅんがMGMで死守し続けた『子供の理想論』だったのかもしれない。」高宮成河「あの頃……雑感」『MGM100カタログ』(MGM 2013年1月27日)28P
- ^ a b c 「自分は迷宮メンバーではありませんが、亜庭さんに頼まれてスペースを守っています。今の迷宮代表は、コロナ禍下での開催のやり方に異論があるので来ません。まあ迷宮も現役で活動できるのは一人だけになってしまったな。」「(今の代表は)霜月たかなかさんです。その名義で申し込んでいます。他の主要メンバーはもう、死に絶えたも同然。」堀内満里子のツイート 2022年8月12日
- ^ 「迷宮は、80年代半ば頃からMGMを告知する場所になっています。『漫画新批評大系』が81年以降出ていなくて、在庫を並べていましたが、だんだん無くなり、『MGM新聞』を置いていました。今回もMGMのお知らせが主です。」「80年代前半、亜庭さんは漫画同人誌『ブレーンバスター』を出し、一時すごい勢いで漫画原稿を描いていました。『新批評大系』は、亜庭家から在庫が見つかると持ってきて売っていました。数年前にも唐突に出てきて20数年ぶりに置きました。亜庭さんは、ビッグサイトには一度も来ませんでしたね。」堀内満里子のツイート 2023年1月3日
- ^ いしいひさいちら関西大学漫画同好会OBによる同人グループ・チャンネルゼロ工房を母体に設立された編集プロダクション。チャンネルゼロ工房とよく混同されるが、株式会社チャンネルゼロは、チャンネルゼロ工房の有志メンバーに高宮成河と村上知彦が加わって立ち上げた別組織であり、現在は解散している。一方、同人グループとしてのチャンネルゼロ工房は、その後も独立した形で存続している。
- ^ 「亜庭じゅんさん。10月の米トのイベントでお会いした時、館用の色紙にサインをお願いしたら『まるでパンダだな〜』っておっしゃるので、『ちがいます! ロックファンにとってのミック・ジャガーが来日したようなものです!』と言うと、はははって笑って、高宮さんといっしょにサインしてくださった。」「ヤマダトモコ[神奈川-神保町近辺]Twitter」閲覧日2014年4月30日
- ^ 「亜庭じゅんは年来の病が漸く重篤に至り、入退院を繰り返す中、悪化する体調を押しての出席だった。前日から近隣に夫人と宿をとり、万全を期した。この日は思いの外体調が良く、二次会にも最後まで付き合う元気さを見せたが、三ヶ月後の1月21日永眠。これが多くの友人達への告別の機会となった。」「コミケ誕生打ち明け話 編注」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)735P
- ^ 「森川嘉一郎Twitter」閲覧日2014年4月8日
- ^ 「コミケ誕生打ち明け話ダイジェストレポート1」閲覧日2014年4月13日
- ^ 「コミケ誕生打ち明け話ダイジェストレポート2」閲覧日2014年4月13日
- ^ 「コミケ誕生打ち明け話ダイジェストレポート3」閲覧日2014年4月13日
- ^ 1980年夏に最初のMGM(まんが・ミニ・マーケット)が開かれた場所であると同時に、1976年4月4日に開催の、第2回コミケットの会場にもなった場所である。第1回が行なわれた日本消防会館が往時の姿を留めない現在、現存する「同人誌即売会」の原点を示す場所をMGM再開に選んだことになった。
- ^ 昼間たかし「歴史・人物・雰囲気......同人誌即売会の原点が一挙に集結! 『MGM』が5年ぶりに開催」『日刊サイゾー 2012年2月1日』閲覧日2014年4月8日
- ^ 「『漫画新批評大系vol.16』として刊行された故・亜庭じゅんの遺稿集。亜庭はコミックマーケットの母体となった漫画批評集団『迷宮』の主要メンバーで、同サークルが発行していた同人誌『漫画批評大系』の主筆を務め、創作漫画専門の同人誌即売会『MGM』の創設者でもあった(『アイデア』348号参照)。亜庭はアマチュアであることを全うしたふしがあり、商業媒体にはほとんど執筆せず、表舞台には名を残していない。しかし本書に収録された主として1970年代に書かれた批評、当時のアマチュアへ大きな影響力を与えたと言われるそれらの、30年以上を経てなお通用する強度は素晴らしい。自己批判も含め変革へ向けた運動体としてのファンダム論は歴史的史料として扱うことになるだろうが、戦後まんが史を『サザエさん』対『鉄腕アトム』の総力戦と捉える視点の新鮮さなどは今でも十分刺激的である。村上知彦自身による『ぼくら語り』と亜庭についての原稿を含め、この本の刊行によって漫画批評史を修正する必要が出てくることは間違いない。」ばるぼら「書評」『アイデア』351号(誠文堂新光社 2012年2月10日)186P
- ^ 「『迷宮』の目指していたことは、マンガについての『改革運動』でした。24年組にせよ、三流エロ劇画にせよ、新しいマンガの発生する『現場』をつねにフォローアップする挑戦だったと理解しています。ですから、あにじゅんの遺作集を、故人の追悼刊行だけに留めずにおこうという意図を『迷宮』同人達からのメッセージとして感じます。」赤田祐一「『ぐら・こん』は、ちょっといい夢だった(中編)」『スペクテイター第25号(COMの時代 第四部)』(エディトリアル・デパートメント 2012年6月5日)148P
- ^ 「当時の同人誌即売会の状況を記した文献はほとんどない。今回、MGM100のパンフレットでは、81年春、コミックマーケット17の際の亜庭氏の発言、高宮成河氏(コミックマーケット創成のメンバーであると共に『漫金超』編集長としても知られる)が寄せた文章『あの頃……雑感』を掲載し、コミックマーケットの拡大とMGMの立ち上げは、切り離せないものだったことを、(おそらくは初めて)記している。」昼間たかし「コミケがなくなっても、戻れる場はあった──100回を迎えた同人誌即売会・MGMの意義」『日刊サイゾー 2013年2月3日』閲覧日2014年4月8日
- ^ MGM100には旧作ではあったが亜庭じゅんとの共作まんがを小冊子にしたものを抱えて、まんがせえるの主要スタッフだった間宮レイもサークルとして参加した。サークル名は「亜庭じゅん未公認F.C」を使った。同人誌即売会への30年近い空白を越えてのサークル参加は、MGMの最後に花を添えるとともに、まんがせえるの終了時に亜庭じゅんから贈られた花束への返礼ともなった。
- ^ 2.XXのXXが回次をあらわし、2.02、2.03、2.04…となる。
- ^ 「迷宮代表は、今回もコロナ禍下における有料チケット制についてはいかがなものかということで欠席。」堀内満里子『21世紀通信 2022冬』(コミックマーケット101にて頒布/2022年12月31日)1P
- ^ 私事ですが - ネットゲリラ(2009年10月13日配信) - ウェイバックマシン(2011年11月20日アーカイブ分)
- ^ 式城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」『20世紀エディトリアル・オデッセイ 時代を創った雑誌たち』(誠文堂新光社 2014年4月30日)161P
- ^ 堀内満里子のツイート 2018年12月26日
- ^ 堀内満里子のツイート 2018年12月27日
- ^ 霜月たかなか『コミックマーケット創世記』(朝日新聞出版 2008年12月30日)184P
- ^ 「迷宮による『マニア運動体論』といっても、その実質は亜庭じゅんの執筆によるものであり、僕も米やんもいわば結果としてそれを追認したにすぎない。それほど言葉を駆使する亜庭じゅんの力は圧倒的であったが、筆鋒鋭く既存のまんがサークルを切り捨て、さらには米沢コミケにも斬りつけた言葉は、みずからMGMを開催した実践の段階においては、彼自身を切り裂く諸刃の刃となる。それでも彼は言葉に留まる『理論』よりも、現実に傷つく『実践』のほうを選んだと僕は考える。/そしてそれこそが『マニア運動体論』を反故にしないために彼が取ることが出来た、唯一の方法であったはずだ。さらにそのように『マニア運動体論』を貫徹しようとした限りにおいて、コミケ代表の立場を投げ捨てた僕でも、存続を目的としてコミケに主体的に関わることを放棄した米やんでも、東京という活動の場を共有できなかった高宮でもなく、ただ亜庭じゅんだけが最後まで『迷宮』であり続けたということができるだろう。」原田央男「MGMに参加したこともないくせに…あるいは亜庭じゅんについて」『亜庭じゅん大全』(迷宮'11 2011年12月31日)749P
- ^ 明石良信のツイート 2017年8月31日
- ^ a b 「『迷宮』のWikiは、高宮成河さんが書いたので、高宮さんの交友関係から外れている方の記述はないかも。おとといベルちゃんから電話があって、やはり橋本氏は行方不明とのこと。」堀内満里子のツイート 2023年1月15日
- ^ 「原田さんが抜けたことで、残った2人も居心地が悪くなって、あにじゅんも離れたんじゃないかと思います。三角形の強さみたいなのがあっただろうし。MGMを始めた頃は私ももう『迷宮』にはいなかったんじゃなかったかなと思います。」式城京太郎「『迷宮』と初期コミケット」『20世紀エディトリアル・オデッセイ 時代を創った雑誌たち』(誠文堂新光社 2014年4月30日)160-161P
- ^ 「『じゃ、同人誌だけを売買する場所を作ればいいじゃない。費用は参加するサークルに頭割りすれば、こっちはそんなにかからないし、やることだって、連絡と宣伝だけだから、手間はかからない。名前はコミックマーケット、略称コミケット!』/明石さんの一言から、ここまで、おそらく15分はかかっていない。天啓のように、一瞬にしてコミケットは誕生した。いや、ふりかえって見れば、その瞬間は、20年の時を超えて、現在に至る全てを胚胎していたと言ってもいい。何の迷いも逡巡もなく決まった、“コミックマーケット”という名称。このマーケットというネーミングがすべてを決めた。」「他のメンバーがどうであったかは知らない。しかし、少なくともコミケットを運営する主体を、コミケット運営委員会でも、実行委員会でもなく、『コミケット準備会』とした時、その底に、コミケットなるものは、いつまでも手の届かない逃げ水になるという、予感は共有していたろう。」亜庭じゅん「明石さんへ──」『コミックマーケット20周年記念資料集』(コミックマーケット準備会 1996年3月17日)420P
- ^ 「昔のコミケット手帳のスタッフ紹介の中に『(僕の)一言でコミケットが始まった』とあったが、僕にはそんな記憶はなく、当時話を聞かされたとき『うわあ、それは素晴らしい企画だ』と喜んでいるばかりだった。十数年たってその時のいきさつを亜庭氏に聞いたところ、色々な打ち合わせの時、僕が『漫大が無くなると同人誌が買えなくなるなあ』とぶつぶつ言っていたのを聞いて思いついたとのことであったが…このあたりは当時の関係者に聞けば、それぞれ異なる思い出が引き出されることだろう。とにかく、それやこれやで昭和50年冬、第1回コミケットは開かれた。」Mr.A「コミケット自分史」『コミケットの歩き方Ⅴ』(OB会 1995年8月)6P
- ^ 「コミケット開催の最大のきっかけは僕らの仲間であったT.I.嬢が漫大を批判したことによる参加拒否問題であり、その後『漫画大会を告発する会』を作り、色々な経緯を経て開催に至るのだが、それが決まった時期は良くわからない。式城氏によれば迷宮結成時には既にコミケットの開催は決まっていたというし、後述の亜庭氏の文では決まったのは初夏になっている(告発する会の結成が7月だからそのときかもしれない)。僕は秋ごろに開催を聞いて驚喜したという記憶があるから、あの『伝説』すなわちコミケット手帳の『僕の一言でコミケは始まった』は真実ではないと『歩き方』にも書いたのだが、その後『20s』で亜庭氏が『伝説』を補強するようなことを書いたものだから一部には真実と捉えられているようだ。何度か米やんにこのことの経緯を聞いたのだがニャニャしながら『人にはそれぞれの思い出があるからねえ』と自分の思い出は喋ってくれなかった。」明石良信のツイート 2019年10月17日
- ^ 「コミックマーケットは僕が『漫画大会がなくなると、同人誌が買えなくなる』というようなことを言ったことをきっかけに、コンセプトが決まったという話になってますけど、実際の運営実務にはほとんど関わってないんですよ。」明石良信「明石良信ショートインタビュー」『同人誌即売会メイカーズ [コミックスクウェア編]』(2023年8月13日、編集:国里コクリ、発行:よつばの。)33P
- ^ 2014年に誠文堂新光社から刊行された『20世紀エディトリアル・オデッセイ 時代を創った雑誌たち』(ばるぼらとの共著)に収録。
- ^ 佐川俊彦「愛する米澤さんへ」虎馬書房『米澤嘉博に花束を』p68
- ^ 竹本健治 [@takemootoo] (2015年3月18日). "僕も出品した第1回のコミケの公式ポスター。何とガリ版。描いたのは、当時よくつるんで遊んでいた鈴木哲也君。彼はガリ版の魔術師と呼ばれ、浮世絵みたいな多色刷りのガリ版同人誌を作ったりしていた。ここでも6色+グラデーションを使っている。". X(旧Twitter)より2023年1月15日閲覧。
- ^ 有限会社コミケット/青林工藝舎『コミックマーケット30'sファイル』2005年7月、223P
- ^ Calci [@Calcijp] (2018年4月25日). "何度か呟いてますが、僕がコミケに初参加したのは1977年の4月の第5回から。僕が編集をした同人誌を売りにいったのが最初です。ジャンルは評論。その同人誌の執筆メンバーはマンガファンのグループ「全日本まんがファン連合」で知り合った人たちです。". X(旧Twitter)より2024年1月8日閲覧。
- ^ Calci [@Calcijp] (2018年4月25日). "なんか「女のオタクなど存在しない、歴史の捏造は許さない」とか言うツイートを見かけたので1977年頃のコミケの写真貼っとくわ。". X(旧Twitter)より2023年1月15日閲覧。
- ^ Calci [@Calcijp] (2021年1月12日). "以前にも出したかもですが、1977.7.30, コミケット6の際の木馬館合宿の様子。左から、高宮成河、亜庭じゅん、米澤嘉博、坂野(米澤)英子(結婚前)。良く残ったと思います。". X(旧Twitter)より2023年1月15日閲覧。
- ^ 藤下真湖「コミケの迷路『コミケット・スキャンダル』」漫画の手帖事務局『漫画の手帖』84号
- ^ 「MGMじゃ売るに売れないから、身内に直接売りつけたのかも。だから80年代なのに青焼きで少部数。これ持ってる人間に聞くと、みんなどこで買ったか記憶にない(笑)」くだん書房のツイート 2022年10月18日
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- MGM2ページ (MGM終了後、MGM2がMGM参加スタッフ・サークルにより新しく開始された)