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速見小三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

速見 小三郎(はやみ しょうさぶろう、文政3年(1820年) - 明治29年(1896年)10月)は幕末郡上藩士。凌霜隊の副長。「速見」は「速水」とも。

略歴

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文政3年(1820年)に郡上藩で誕生。行道と名乗る。

慶応4年4月10日1868年5月2日)に凌霜隊が結成されると、17歳の朝比奈茂吉隊長を支えるため47歳の小三郎と52歳の坂田林左衛門[1]が補佐として副隊長をつとめる。

小三郎は参謀を兼任し会津藩などで連戦したが、明治元年(1868年)9月22日に降伏した。

明治3年2月19日1870年3月20日)に謹慎解禁、藩知事から11石で召し出されたが断っている。

明治4年(1871年)に名を正雄と改め、明治5年(1872年)に岐阜伊奈波神社の祠官となる。

明治10年(1877年)に東京に出て、宮内省系譜掛雇、宮内省図書寮雇などを歴任。晩年は妻と離縁し長男を勘当している。

明治29年(1896年)10月に75歳で死去した。[2]玉窓寺に眠る[3]。戒名「誠性院諦岳行道居士」。

辞世の句は「つみならぬ つみにしづみて いつ迄か うき年月を 我はへぬらむ」。

その他

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八幡城天守閣の裏手に「凌霜の森」と名付けられた凌霜隊慰霊碑がある。その碑文に「道は一筋なり」という言葉があるが、これは小三郎が日記に記した一節である。

小三郎は会津戦争の最中に日記を残している。一節に「抑道ハ一筋ナリ、君ニ忠ナルハ親ニ孝ナリ、皇国ノ御為ナリ、真ノ勤王ナリ、是ニ反セルハ不忠ナリ、不義ナリ、不孝也、国賊也、禽獣也、予子孫タル者熱く是理ヲ弁知スベキ也。」とあり、小三郎の思いがうかがえる。

『速水日記』・『速水行道日記稿』[4]というが、原本は不明。

参考資料

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  • 『歴史探訪~郡上 凌霜隊~』
  • 『凌霜隊戦記「心苦雑記」と郡上の明治維新』高橋教雄、八幡町教育委員会
  • 『郡上八幡町史 史料編1』[5]八幡町、 1985年
  • 『近代日本政治史研究』[6]藤井徳行、北樹出版、 1980年
  • 『岐阜県史 史料編 近代1』[7]岐阜県、 1998年

脚注

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  1. ^ 郡上藩御用人
  2. ^ 東京都港区南青山
  3. ^ 速水累代之墓と速水家族之墓がある
  4. ^ 『郡上八幡町史 史料編1』『近代日本政治史研究』『岐阜県史 史料編 近代1』で確認可能。
  5. ^ p.899-964、『速水行道日記稿(抄)』に収録、天保10年12月13日から明治5年12月2日まで記載。最も詳細。
  6. ^ p.68-p.81『速水行道日記(抄)』に収録、慶応4年4月10日から明治3年11月15日まで記載。
  7. ^ p.121-129『日記稿1(凌霜隊副隊長速水行道日記)(抄)』に収録、慶応4年4月10日から明治元年12月28日まで記載。一年間の記録。