速見小三郎
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速見 小三郎(はやみ しょうさぶろう、文政3年(1820年) - 明治29年(1896年)10月)は幕末の郡上藩士。凌霜隊の副長。「速見」は「速水」とも。
略歴
[編集]慶応4年4月10日(1868年5月2日)に凌霜隊が結成されると、17歳の朝比奈茂吉隊長を支えるため47歳の小三郎と52歳の坂田林左衛門[1]が補佐として副隊長をつとめる。
小三郎は参謀を兼任し会津藩などで連戦したが、明治元年(1868年)9月22日に降伏した。
明治3年2月19日(1870年3月20日)に謹慎解禁、藩知事から11石で召し出されたが断っている。
明治4年(1871年)に名を正雄と改め、明治5年(1872年)に岐阜・伊奈波神社の祠官となる。
明治10年(1877年)に東京に出て、宮内省系譜掛雇、宮内省図書寮雇などを歴任。晩年は妻と離縁し長男を勘当している。
明治29年(1896年)10月に75歳で死去した。[2]玉窓寺に眠る[3]。戒名「誠性院諦岳行道居士」。
辞世の句は「つみならぬ つみにしづみて いつ迄か うき年月を 我はへぬらむ」。
その他
[編集]八幡城天守閣の裏手に「凌霜の森」と名付けられた凌霜隊慰霊碑がある。その碑文に「道は一筋なり」という言葉があるが、これは小三郎が日記に記した一節である。
小三郎は会津戦争の最中に日記を残している。一節に「抑道ハ一筋ナリ、君ニ忠ナルハ親ニ孝ナリ、皇国ノ御為ナリ、真ノ勤王ナリ、是ニ反セルハ不忠ナリ、不義ナリ、不孝也、国賊也、禽獣也、予子孫タル者熱く是理ヲ弁知スベキ也。」とあり、小三郎の思いがうかがえる。
『速水日記』・『速水行道日記稿』[4]というが、原本は不明。
参考資料
[編集]- 『歴史探訪~郡上 凌霜隊~』
- 『凌霜隊戦記「心苦雑記」と郡上の明治維新』高橋教雄、八幡町教育委員会
- 『郡上八幡町史 史料編1』[5]八幡町、 1985年
- 『近代日本政治史研究』[6]藤井徳行、北樹出版、 1980年
- 『岐阜県史 史料編 近代1』[7]岐阜県、 1998年