進士晴舎
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 永禄8年5月19日(1565年6月17日) |
別名 | 進士新次郎、進士修理亮、進士美作守、内膳頭 |
官位 | 美作守 |
主君 | 足利義晴→足利義輝 |
氏族 | 進士氏 |
父母 | 父:進士国秀 |
子 | 藤延、貞連[1]、小侍従局(足利義輝側室) |
進士 晴舎(しんし はるいえ)は、戦国時代の武将。足利義晴、足利義輝に走衆・奉公衆として仕えた。「晴」の字は義晴からの偏諱である。
生涯
[編集]『大館常興日記』天文9年(1540年)3月30日条などによると、父・進士国秀は前年に奉公衆の諏訪長俊と所領を争った落とし前として剃髪し、その代わりとして息子の晴舎は奉公衆に参加したという。
『大館常興日記』天文10年(1541年)10月3日条には、五番衆として進士長門守澄胤、進士新次郎晴舎の名前が見える。
永禄8年5月19日(1565年6月17日)の永禄の変では、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)らは清水寺参詣を名目に約1万の軍勢を結集して御所に押し寄せ、将軍・足利義輝に訴訟(要求)ありと取次を求めたため、晴舎が訴状の取次に往復する間、三好勢の鉄砲衆は四方の門から侵入して攻撃を開始した。将軍方が応戦している間に、晴舎は敵の侵入を許したことを詫びて、義輝の御前で切腹した。ただし、晴舎は三好氏・松永氏との取次であり、交渉決裂の責任を取ったとも、彼が自害したことで三好方から交渉決裂・手切とみなされて攻撃が開始されたとも考えられる[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『綿考輯録』
- ^ 木下昌規 編『足利義輝』戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9。
参考文献
[編集]- 木下昌規 編『足利義輝』戒光祥出版〈シリーズ・室町幕府の研究〉、2018年。ISBN 978-4-86403-303-9。