遠藤謹助
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遠藤 謹助(えんどう きんすけ、天保7年2月15日〈1836年3月31日〉 - 明治26年〈1893年〉9月13日)は、明治時代の長州藩出身の官僚で長州五傑の一人[1]。日本の「造幣の父」として知られる[2]。錦鶏間祗候。
経歴
[編集]文久3年(1863年)、密かに英国に井上馨、山尾庸三、伊藤博文、井上勝の4人と共に留学し、慶応2年(1866年)に帰国。同年、英国公使ハリー・パークスはジョージ・キング提督に長州藩を訪問させる事とし、井上馨らは三田尻で出迎えて饗応し、翌日停泊する英国艦提督室で毛利敬親父子との会見が実現した。この時遠藤と井上が通訳をした。
明治維新後は、明治3年(1870年)から死去する1893年(明治26年)まで造幣局に務めた。1874年(明治7年)には指導責任者であるイギリス人のお雇い外国人トーマス・ウィリアム・キンドルと衝突し、造幣局を去るが、1875年(明治8年)1月にはオリエンタル・バンクと契約を解消し、キンドル他9人のお雇い外国人が解雇されると、再び造幣局に戻る。1881年(明治14年)には造幣局長となっている。1893年6月20日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[3]。
逸話
[編集]毎年4月中旬の1週間、局内の桜並木を一般公開する桜の通り抜け (大阪造幣局)は、明治16年(1883年)に当時の局長だった遠藤の指示により始まり、現在も大阪の春の風物詩として継承されている。
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ http://heisei-shokasonjuku.jp/senjindb/endokinsuke/
- ^ https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=62
- ^ 『官報』第2992号、明治26年月21日。
- ^ 『官報』第301号「叙任及辞令」1884年7月1日。
- ^ 『官報』第2136号「叙任及辞令」1890年8月12日。
公職 | ||
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先代 (新設) |
造幣局長 1887年 - 1894年 造幣局事務長 1886年 - 1887年 |
次代 長谷川為治 局長心得 |
先代 熊谷武五郎 |
記録頭 1875年 - 1877年 |
次代 (廃止) |