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那須資之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
那須資之
時代 室町時代中期
生誕 不明
死没 正長元年8月8日1428年9月17日[1]
別名 太郎[2]
戒名 関光院明海英東[2][3]
官位 越後[2][3]
氏族 那須氏(上那須家)
父母 父:那須資氏
兄弟 資之資重、資朝?
上杉禅秀
氏資資朝
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那須 資之(なす すけゆき)は、室町時代中期の武将那須氏(上那須家)12代当主。

略歴

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那須資氏の子として誕生。応永21年(1414年)頃より弟・資重と対立し、那須家の分裂を招いた。

応永23年(1416年)に上杉禅秀の乱が勃発すると、義父である禅秀方に与し、鎌倉公方足利持氏の討伐を受けた。このような事情もあり、資重が持氏を頼って資之に抵抗を続けたので、資之は那須家の統一を果たすことはできず、資之の上那須家(居城・福原城)と資重の下那須家(居城・沢村城、後に烏山城)が以後暫く併存することになった。

正長元年(1428年)、死去。

脚注

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  1. ^ 『史料綜覧』第7編之907 552頁
  2. ^ a b c 『那須系譜』
  3. ^ a b 『諸家系図纂』

出典

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  • 『那須系譜』
  • 『諸家系図纂』(那須系図)