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那須資実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
那須資実
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 不明
死没 明応3年1月24日1494年3月1日[1]
別名 太郎
戒名 玄利院傑山道英[2]/傑山道無[3]
傑山道英玄利院[4]
官位 伊予[5]
氏族 那須氏(下那須家)
父母 父:那須資持
兄弟 資実興野持隆
那須明資
資房武茂氏[6]/茂木氏[4]室、佐竹氏義[6]稲澤播磨守[6]木須頼実[4]
資衡[6]資仲[6]
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那須 資実(なす すけざね)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将那須氏(下那須家)当主。下野国烏山城主。

下那須家当主・那須資持の子として誕生。上那須家との対立は続いていたが、文明4年(1472年)に白河結城氏結城直朝の仲介により上那須家当主・那須明資の娘を室に迎えるなど関係の修復に努めた。同年、古河城を追われた古河公方足利成氏の古河復帰に結城氏広千葉孝胤と共に協力し成し遂げた。

明応元年(1492年)から死去までの間に烏山城の増築を行った。

明応3年(1494年)、死去。家督は子・資房が継いだ。

脚注

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  1. ^ 『史料綜覧』第8編之909 2頁
  2. ^ 『那須系譜』
  3. ^ 『那須七系』
  4. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』
  5. ^ 『那須記』
  6. ^ a b c d e 『那須系図』

出典

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  • 『那須系譜』
  • 『那須七系』
  • 寛政重修諸家譜』(七百三十五)
  • 『那須記』
  • 『那須系図』
  • 『寛永諸家系図伝』(那須)