那須資隆
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時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 太郎 |
氏族 | 那須氏 |
父母 | 父:須藤宗資 |
兄弟 | 須藤隆良、資隆 |
妻 | 宇都宮朝綱娘? |
子 |
森田光隆(太郎)、佐久山泰隆、芋淵幹隆、福原久隆、資之(五郎)、滝田実隆、 沢村満隆、堅田義隆、稗田朝隆、 千本為隆(十郎)、資隆、頼資? |
那須 資隆(なす すけたか)は、平安時代後期の武士。那須氏初代当主。那須与一の父。
出自
[編集]那須氏は、藤原北家・藤原道長の曾孫で下野国那須郡に下向し、須藤貞信と称した藤原資家を祖とする。以後須藤氏を名乗っていたが、資隆の代から那須氏に改姓したという。
略歴
[編集]須藤宗資(那須武者所)の子として誕生。
元々、源氏方の武士であった那須氏(須藤氏)は、平治元年(1160年)に勃発した平治の乱において、源義朝に従った須藤資満・資清が敗死している。しかし、資隆の頃には平氏寄りの立場をとったため、義朝の遺児・源頼朝が治承4年(1180年)に伊豆国で挙兵した際も、従ったのは資隆の子のうち十郎為隆と与一(宗隆、のち資隆)のみであり、残り9人の兄達は平氏に与した。
十一男・与一は、治承・寿永の乱の際、源氏方に与し元暦2年/寿永4年(1185年)の屋島の戦いなどで活躍し、兄達を差し置いて那須氏当主となったと伝えられる。四男・福原久隆は那須七騎の一角・下野福原氏の祖であり、十男・為隆は同じく那須七騎・千本氏の祖である。五男・資之は与一の跡をうけて那須氏当主となった。他の子達もそれぞれ那須氏の支族の祖となり、那須氏の発展の礎となった。
4代当主・頼資も資隆の庶子とする説もある。