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邯鄲諸国物語

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

邯鄲諸国物語』(かんたんしょこくものがたり)は、国内諸国の伝奇物語を繋げたオムニバス合巻天保5年(1834年)、柳亭種彦が書き始め、その没後、門弟の笠亭仙果が、弘化5年(1848年)から書き繋いだ。

経緯

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天保5年、52歳の柳亭種彦は、『偐紫田舎源氏』の11、12、13編を刊行して人気の盛りにあった。(好評だった『正本製』シリーズは、3年前に終わっていた。)この年から彼は、『邯鄲諸国物語』を、『田舎源氏』に並行して世に問い、毎年あるいは隔年に編を重ねた。挿絵は親友の歌川国貞であった。

天保13年(1842年)、種彦は水野忠邦天保の改革により、『田舎源氏』の出版を禁じられ、そして没し、『諸国物語』は8編で中断した。

  • 柳亭種彦の『邯鄲諸国物語』
    • 初編/2編:天保5年(1834)、近江の巻/近江の巻 附 出羽の巻
    • 3編:天保6年(1835)、大和の巻
    • 4編:天保8年(1837)、大和の巻
    • 5編:天保9年(1838)、大和巻残編
    • 6編:天保11年(1840)、播磨の巻前編
    • 7編/8編:天保12年(1841)、播磨の巻中編/播磨の巻下編

弘化5年(1848年)、種彦の門弟だった笠亭仙果が、「故柳亭先生旧案門人仙果補綴」と断り書きして9編を出し、以後続刊した。絵師は変わった。

  • 笠亭仙果の『邯鄲諸国物語』
    • 9編:弘化5年(1848)、伊勢の巻前編、二世歌川豊国
    • 10編:嘉永2年(1849)、伊勢の巻後編 附 遠江の巻、二世豊国画
    • 11編:嘉永3年(1850)、遠江の巻前編、二世豊国画
    • 12/13編:嘉永4年(1851)、遠江の巻後編、二世豊国画/摂津の巻、二世豊国・歌川貞秀
    • 14/15編:嘉永5年(1852)、摂津の巻、貞秀画/摂津の巻、貞秀画
    • 16/17/18編:嘉永6年(1853)、摂津の巻、二世国貞画/摂津の巻、二世国貞画/摂津の巻、二世国貞画
    • 19編:安政元年(1854)、摂津の巻、二世国貞画
    • 20編:安政3年(1856)、摂津の巻、二世国貞画

全20編を通じ、版元は芳町(現在の中央区日本橋人形町)の栄久堂山本平吉であった。一編は上下2冊、一冊は半裁した半紙の右左に1ページずつを刷り、2つに折り、10枚重ねて綴じた20ページの、B6に近い中本であった。

内容

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結局は善玉がむくわれる勧善懲悪の筋立てに色模様がからむ「諸国物語」の、国は変わり、ただし、前編の人物の一部は後の編にも登場して繋がる。

種彦は初編の序に、「この絵草紙井原西鶴の『西鶴諸国はなし』や江島其磧の『其磧諸国物語』を真似て作ったのだが、『種彦諸国物語』とするのも気が引けるから、『邯鄲の夢』の『邯鄲』を使う」と、書いている。のちには、『種彦諸国物語』の題簽の版も出た。

笠亭仙果は、『伊勢の巻』は種彦の『笹色猪口暦手』を、『遠江の巻』は『其磧諸国物語』を、『摂津の巻』は栗杖亭鬼卵の『長柄長者鶯塚』を翻案したと、ことわっている。

出版の状況

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最も新しい出版は、昭和2年(1927年)である。

  • 礫川出版 古今小説名著集 7、10、13、15巻、第2期2巻中に分散 (1892)
  • 東亜堂書房 日本文芸叢書29巻、30巻(幸田露伴校訂)(1911)
  • 国書刊行会 家庭絵本文庫、全5巻(1915)
  • 金星堂 日本文藝叢書刊行會 第2期19巻全2冊(1927)

外部リンク

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