コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

邵文凱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
邵文凱
『満洲紳士録 第三版』(1940年)
プロフィール
出生: 1887年光緒13年)[1][2][3]
死去: 不詳
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区奉天府遼陽州 [1][4][5]
職業: 軍人
各種表記
繁体字 邵文凱
簡体字 邵文凯
拼音 Shào Wénkǎi
ラテン字 Shao Wen-k'ai
和名表記: しょう ぶんがい
発音転記: シャオ ウェンカイ
テンプレートを表示

邵 文凱(しょう ぶんがい)は中華民国の軍人。奉天派に属する。後に汪兆銘政権に参加した。仲則[1][2]

事績

[編集]

遼陽の大地主の家庭に生まれる。日露戦争に際して乃木希典が邵文凱の実家に泊まったことがあり、その時に乃木から可愛がられたことがきっかけで、邵は軍人を目指したという[4]

1919年民国8年)、東三省講武堂第5期歩兵科を卒業する。1927年(民国16年)、第8軍少将参謀長に任命された。翌年、東北陸軍第27旅旅長代理に昇進し、少将銜を授与された。1931年(民国20年)、東北憲兵副司令兼北平戒厳司令に任ぜられる。1936年(民国25年)10月、中将銜を授与された[1]

1937年(民国26年)7月の盧溝橋事件に際しては、邵文凱は撤退する冀察政務委員会委員長の宋哲元を見限って日本側に転じる[4]。そのまま中華民国臨時政府に参与し、翌1938年(民国28年)3月12日、治安部憲兵司令に就任した[2][6]汪兆銘政権にも参加し、臨時政府を改組した華北政務委員会で引き続き憲兵司令を務めている。1944年(民国33年)5月、河南省省長を兼任した。翌年5月、軍事委員会委員に異動している[1]

日本敗北後、河北省長の栄臻と共に邵文凱は国民政府に逮捕され、軍事委員会委員長北平行営主任・李宗仁が主宰する軍事法廷で死刑判決を受けた[7][8]。しかし、実際の執行状況は不明である[9]

[編集]
  1. ^ a b c d e 徐主編(2007)、785頁。
  2. ^ a b c 尾崎監修(1940)、160-161頁。
  3. ^ 劉国銘主編(2005)、1431頁は、1890年光緒16年)とする。
  4. ^ a b c 朽木(1967)、112-113頁。
  5. ^ 尾崎監修(1940)、160-161頁は、「海城県」出身としている。
  6. ^ 臨時政府令、令字第143号、民国27年3月12日(『政府公報』第9号、臨時政府行政委員会公報処、民国27年3月21日、無頁)。
  7. ^ 益井(1948)、153頁。
  8. ^ 余ほか(2006)、1422-1423頁。
  9. ^ 栄臻も同じ軍事法廷で死刑判決を受けたが最終的に執行されず、新中国で1960年に病没した。

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 余子道ほか『汪偽政権全史 下巻』上海人民出版社、2006年。ISBN 7-208-06486-5 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 尾崎秀実「アジア人名辞典」『アジア問題講座 第12巻』創元社、1940年。 
  • 朽木寒三『馬賊と女将軍 中島成子戦記』徳間書店、1967年。 
  • 益井康一『裁かれる汪政権 中国漢奸裁判秘録』植村書店、1948年。 
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
田文炳
河南省長
1944年5月 - 1945年4月
次代
鮑文樾