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郁久閭予成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

郁久閭 予成漢音:いくきゅうりょ よせい、拼音:Yùjiŭlǘ Yŭchéng、? - 485年)は、柔然可汗吐賀真の子。可汗号は受羅部真可汗(しゅうらぶしんかがん)といい、“恵可汗”という意味である。

生涯

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北魏和平5年(464年)、吐賀真が死去すると、子の予成が即位して、受羅部真可汗と号した。予成は柔然で初めて独自の年号を立てて永康元年とした。さっそく予成は部落を率いて北魏の国境を侵犯したが、7月、北魏北鎮の遊軍に大破された。

永康5年(468年)、柔然はに朝貢した。

永康6年(469年)2月、柔然・庫莫奚契丹は北魏に遣使を送って朝貢した。7月、柔然は再び北魏に遣使を送って朝貢した。

永康7年(470年)、予成は北魏の辺境を侵犯した。献文帝の車駕は北方を討伐し、京兆王の拓跋子推と東陽公の元丕は諸軍を統率して西道に、任城王の元雲らは軍を統率して東道に出て、汝陰王の元賜と済南公の羅烏抜は軍を統率して先鋒となり、隴西王の源賀は諸軍を統率して後に続いた。諸将は献文帝の車駕と女水の河岸で合流した。そして精兵五千人を選抜して戦闘を仕掛け、多くの疑兵を設けて柔然軍を混乱させた。柔然軍は潰走した。この頃、柔然は鄯善焉耆亀茲姑墨などの西域諸国を役属させ、于闐に迫り、于闐は北魏に救援を要請する。

永康8年(471年)3月・6月、柔然は宋に遣使を送って朝貢した。

永康9年(472年)2月、柔然は北魏の辺境を侵犯した。献文帝は将を遣わしてこれを撃ち、遁走させる。柔然別帥の阿伏干部は千余落を率いて北魏に降る。また、東部勅勒が北魏より柔然に降る。6月、柔然部帥の没路真部は三万騎を率いて塞に入り鎮を包囲し、尉多侯はこれを撃って潰走させ、征西大将軍に拝される。後に尉多侯は南山で猟をし、柔然は部帥の度抜を遣わし敦煌を包囲し、その還路を絶った。尉多侯はその包囲を解いて鎮に入り、衆を率いて戦い、柔然を大破する。10月、柔然は北魏の辺境を侵し、五原に侵攻する。11月、柔然は宋に遣使を送って朝貢した。

永康10年(473年)7月、柔然は敦煌を侵すが、鎮将の楽洛生に撃たれる。12月、北魏の辺境を侵し、柔玄鎮の二部勅勒もこれに呼応した。

永康11年(474年)5月、柔然は北魏と宋に遣使を送って朝貢した。7月、柔然は敦煌鎮を攻撃した。しかし、鎮将の尉多侯に破られる。

永康12年(475年)、予成が北魏に通婚を求めた。予成は何度も国境を侵犯してきたので、官僚は使者を拒絶し、軍を出撃させて柔然を討伐することを求めた。献文帝は柔然を討つべきではないとし、柔然には「婚姻とは軽々しく行うものではない」と伝えた。そのため予成は献文帝の在位中には改めて通婚を求めなかった。

永康13年(476年)、柔然はこの年に4回も北魏に遣使を送って朝貢した。

永康14年(477年)4月、予成は莫何去汾の比抜らを北魏に派遣し、良馬やの皮衣を献上した。5月・9月にも朝貢した。

永康15年(478年)2月、予成は再び比抜らを朝貢の使者として派遣し、ついで再び通婚を求めた。孝文帝の意図は友好関係を結ぶことにあり、これを許した。予成は毎年の貢納を絶やさなかったものの、誠意を明らかに示さなかったので、婚姻も取り止めとなった。9月、柔然は宋に遣使を送って朝貢した。宋の宰相の蕭道成は驍騎将軍の王洪範を柔然に派遣して、共に北魏を討つことを謀る。

永康16年(479年)4月、柔然は北魏に遣使を送って朝貢した。11月、王洪範が柔然に到着し、予成は宋の要請に従い、十余万を率いて南下し、北魏を牽制した。この年、柔然は高句麗と計って共に地豆于を分散させようとした。

永康17年(480年)3月、柔然は北魏に遣使を送って朝貢する。また、南朝のに遣使を送って朝貢し、斉の太祖(蕭道成)に北魏を挟撃することを提案した。

この後数年間、柔然は北魏と斉に遣使を送って朝貢した。

永康22年(485年)12月、柔然は北魏の塞を侵犯し、任城王元澄は衆を率いてこれを防ぐ。この年、予成は死去し、子の豆崙が継いで伏古敦可汗となる。

参考資料

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  • 宋書』(帝紀、索虜伝)
  • 魏書』(列伝第十四、列伝第八十八、列伝第九十 西域、列伝第九十一 蠕蠕)
  • 北史』(列伝第八十六 蠕蠕)
  • 南斉書』(芮芮伝)
先代
吐賀真
柔然可汗
450年/464年 - 485年
次代
豆崙