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郁久閭呉提

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

郁久閭 呉提漢音:いくきゅうりょ ごてい、拼音Yùjiŭlǘ Wútí、? - 444年)は、柔然可汗大檀の子。可汗号は敕連可汗(ちょくれんかがん)といい、“神聖可汗”という意味である。

生涯

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2年(429年)、大檀が病死すると、子の呉提が立って敕連可汗と号した。

4年(431年)6月、呉提は北魏に遣使を送って朝献した。以前、柔然の斥候騎兵20人余りが北魏に捕えられた。太武帝は彼らに衣服を賜って帰国させた。呉提ら君臣はこのことに恩義を感じたので北魏に朝貢をした。太武帝は柔然の使者を手厚くもてなして帰国させた。

延和3年(434年)2月、太武帝は呉提に西海公主を娶らせると、柔然は再び使者を派遣し、呉提の妹を太武帝の夫人として献上した。さらに呉提の妹は左昭儀に昇格された。呉提は兄の禿鹿傀と側近数百人を派遣して来朝させ、2千頭の馬を献上した。太武帝は非常に喜び、各々に手厚く下賜した。10月、呉提は再び北魏に朝貢した。

太延元年(435年)2月、柔然・焉耆車師などの国々が北魏に遣使を送って朝貢した。太武帝は行人の王恩生許綱らを使者として車師前部国へ送った。しかし、王恩生らは流沙を渡ったところで柔然に捕えられた。王恩生は呉提に対し、節を持って屈しなかった。呉提は太武帝に返還を迫られ、王恩生らを帰らせた。

太延2年(436年)、柔然は北魏との和親を絶って国境を侵犯した。

太延4年(438年)7月、太武帝の車駕は五原に赴き、柔然を征討した。楽平王の拓跋丕・河東公の賀多羅は15名の将軍を統率して東道に、永昌王の拓跋健・宜都王の穆寿は15名の将軍を統率して西道に、車駕は中道に出た。浚稽山に至ると、さらに中道を進む軍勢を2方面に分け、陳留王の拓跋崇は大沢から涿邪山に、車駕は浚稽山から北方の天山に向かった。西方の雪山に登り、石碑に刻んで行軍の記録とした。北魏軍は柔然軍を発見せずに帰還した。この時、漠北では大旱魃が発生し、水や牧草がなくなって、多くの軍馬が死亡した。

太延5年(439年)6月、車駕は西方の沮渠牧犍を討伐した。宜都王の穆寿は拓跋晃を補佐し、平城に駐留して防衛の任務に就いた。長楽王の紇奚敬・建寧王の拓跋崇の兵2万は漠南に駐留して柔然に備えた。9月、呉提は沮渠牧の救援に応じて北魏に侵入した。穆寿は全く防備を固めておらず、柔然軍が七介山に来ると、京邑は恐慌状態となり、城内の人々は争って中城に逃げ込んだ。司空長孫道生は吐頽山で柔然軍を迎撃した。呉提は北魏に侵攻すると、兄の乞列帰を後方に配置して北鎮の諸軍と対峙させた。紇奚敬と拓跋崇らは陰山の北で乞列帰を破り、乞列帰を捕らえた。さらにその伯父の他吾無鹿胡と将帥500人を捕らえ、一万余りの首級を斬った。呉提は乞列帰らの敗北を聞いて逃走した。長孫道生が呉提を追撃したが、漠南に至って帰還した。10月、呉提は南朝に遣使を送って方物を献じた。

太平真君2年(441年)3月、北魏は郁久閭乞列帰を朔方王に封じた。

太平真君3年(442年)、呉提は伊吾王の唐契を攻撃し、唐契は高昌に奔走し、その地を奪おうとした。柔然部帥の阿若は騎馬を率いて高昌太守闞爽を救い、唐契を殺した。9月、沮渠無諱が高昌を奪取したので、闞爽は柔然に逃げた。10月、柔然は宋に遣使を送って朝貢した。

太平真君4年(443年)、太武帝の車駕は漠南に赴き、軍勢を4方面に分けた。楽安王の拓跋範・建寧王の拓跋崇は各々15人の将軍を率いて東道に、楽平王の拓跋丕は15人の将軍を率いて西道に、車駕は中道に出で、中山王の拓跋辰は15人の将軍を率いて中軍の後に続いた。車駕は鹿渾谷に至って、柔然軍と遭遇した。呉提が逃走したので、北魏軍は追撃して根河に至り、柔然軍を撃破した。車駕は石水に至って帰還した。

太平真君5年(444年)、太武帝は再び漠南に赴き、呉提を襲撃しようとしたが、呉提が遠方に逃れたので取り止めた。この年、呉提は亡くなり、子の吐賀真が立ち、処可汗と号す。

参考資料

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  • 宋書』(文帝紀)
  • 魏書』(列伝第八十九 高昌、列伝第九十 西域、列伝第九十一 蠕蠕)
  • 北史』(列伝第八十六 蠕蠕)


先代
大檀
柔然可汗
429年 - 444年
次代
吐賀真