郭敦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

郭 敦(かく とん、洪武3年(1370年)- 宣徳6年4月11日1431年5月22日))は、明代官僚は仲厚。本貫博州堂邑県

生涯[編集]

郭政寛と侯氏のあいだの子として生まれた。洪武26年(1393年)、郷試に及第し太学に入った。戸部広西清吏司主事に抜擢された。衢州府知府に転じ、善政で知られた。永楽初年、南京に召還された。衢州の故老数百人が宮殿を訪れて郭敦の留任を請願したが、永楽帝は聞き入れなかった。後に廷臣の推挙により、郭敦は監察御史に任じられた。河南左参政として出向し、陝西左参政に転じた。永楽16年(1418年)正月、胡濙の推挙により、礼部右侍郎に抜擢された。太僕寺卿を兼ねた。永楽19年(1421年)4月[1]給事中の陶衎とともに順天巡撫をつとめた。永楽20年(1422年)、永楽帝の漠北遠征の食糧輸送を監督した。

永楽22年(1424年)、洪熙帝が即位すると、郭敦は喪中にあって斎戒しなかったことから、太僕寺卿に降格した。まもなく戸部左侍郎に進み、詹事府少詹事を兼ねた。宣徳2年(1427年)8月、戸部尚書に進んだ。

宣徳6年(1431年)4月、在官のまま死去した。享年は62。

脚注[編集]

  1. ^ 談遷国榷』巻17

参考文献[編集]

  • 明史』巻157 列伝第45
  • 故資政大夫戸部尚書郭公墓誌銘(楊士奇『東里文集』巻19所収)