郭興
郭 興(かく こう、至順2年(1331年) - 洪武17年11月10日(1384年12月22日))は、元末明初の軍人。濠州の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。弟の郭英も朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。妹は郭寧妃。
生涯
[編集]姓名 | 郭興 |
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時代 | 元時代 - 明時代 |
生没年 | 1331年(至順2年) - 1384年(洪武17年) |
字・別名 | 子興(別名) |
本貫・出身地 | 濠州 |
職官 | 管軍総管→統軍元帥→鷹揚衛指揮使 →鎮国将軍、大都督府僉事→陝西行都督府僉事 |
爵位 | 鞏昌侯(明)→陝国公(明) |
諡号 | 宣武(明) |
陣営・所属 | 郭子興→朱元璋 |
家族・一族 | 父:郭山甫、弟:郭英、郭徳成、妹:郭寧妃 |
至正12年(1352年)、郭子興が挙兵すると、これに参加した。朱元璋に出会い、彼に心服するようになる。軍中では朱元璋の宿衛を守った。
至正13年(1353年)、定遠攻略に参加した24将の一人。功績を上げて管軍総管となり、さらに統軍元帥に進んだ。常州攻略に参加した。寧国・江陰・宜興・婺州・安慶・衢州を攻略した。
至正23年(1363年)、鄱陽湖の戦いに参加した。陳友諒軍は巨艦を連ねて、朱元璋軍との戦いを有利に進めていた。これを打開するために、郭興は火攻めを提案する。火攻めにより形勢は逆転し、陳友諒は戦死して、朱元璋軍の勝利に終わった。武昌攻略に参加し、敵兵を多く斬り、鷹揚衛指揮使となった。徐達に従って廬州を攻略し、安豊を救援して張士誠軍を破った。襄陽・衡州・澧州を攻略した。高郵・淮安を攻略した。湖州・平江を攻略した。張士誠を滅ぼした後、鎮国将軍・大都督府僉事となった。
洪武元年(1368年)、徐達に従い、汴梁を攻略し、河南を守った。馮勝が陝州を攻略した後、潼関を守備する軍を出してほしいと頼んだ。徐達は「郭興にしか務まらぬ」と言って、郭興に潼関を守らせた。潼関周辺には哈麻図・李思斉・張思道らが東方進出を狙って、奉元にて奪取の機会を窺っていた。王左丞が攻めてきたが、これを撃退する。徐達に従い、奉元を攻めて、これを攻略する。鞏昌の守備に移り、辺境地域を安定させた。
洪武3年(1370年)、陝西行都督府僉事となる。冬、功臣の叙勲が行われた。郭興は規律を守らなかったため、鞏昌侯に止められ、食禄1千5百石を賜った。
洪武4年(1371年)、夏国討伐に向かい、漢州・成都を攻略する。
洪武6年(1373年)、徐達に従い、北平を守備する。陳徳とともに元軍を答剌海口にて破る。
洪武16年(1383年)、北方の辺境を巡った。
洪武17年(1384年)、召還された後、53歳で亡くなった。陝国公を贈られ、宣武と諡された。
参考文献
[編集]- 『明史』巻131 列伝第19