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都の錦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

都の錦(みやこのにしき、延宝3年(1675年) - 没年未詳)は、浮世草子作者。宍戸氏。通称は与一、名は光風。非常に多くの号を名乗り、都の錦・雲休堂・八田宮内小輔光風、不埒庵童落院、鉄舟、梅園堂、円喜居士、二千風(大淀三千風のもじり)、喜席軒自笑(江島其磧八文字屋自笑のもじり)などと名乗った。

来歴

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延宝3年(1675年)、大坂で宍戸弥一右衛門久光の嫡男として誕生[1]元禄8年(1695年)、浪人して友部円人と改名した父と上京するが、元禄13年(1700年)、度を超した島原通いが原因で勘当される[1]。元禄14年(1701年)春、鉄舟と改名[1]。元禄15年(1702年)、西沢一風の跋文を添えた『元禄曾我物語』『風流神代巻』『御前於伽』『風流日本荘子』『元禄太平記』『沖津白浪』『女訓徒然草』を相次いで刊行する[1]。元禄16年(1703年)、『風流源氏物語』を刊行する[1]江戸に下るが、無宿人であることが発覚して捕縛。捕縛までの間に、『武道秋の寝覚』『武家不断枕』を執筆したか[1]。捕縛後、山ヶ野金山に流罪[1]宝永元年(1704年)、流人仲間の虐待に耐えられず脱走するも、再び捕縛されて入牢、自ら斬首を願い出る[1]。宝永2年(1705年)、鹿籠金山に移送。宝永5年(1708年)の大赦で上方に戻る[1]。この際、金山役人の関正武に『薩摩椙原』『捨小舟』『鹿籠の水』を手渡す[1]。宝永8年(1711年)、『新鑑草』『好色堪忍破袋』を刊行[1]正徳2年(1712年)、『当世智恵鑑』を刊行[1]。正徳4年(1714年)、九州へ赴こうと試みたとされるが未詳[1]。以後の消息は不明[1]

作風

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長谷川強は、『御前御伽』の記述から、都の錦の小説観を「先づ文章は雅文第一、野鄙なる俗語を避けようとする。内容の点では堅い事を尊重する。和漢の書に典拠を得、談理をまじへるがそれである」と述べる[2]

中嶋隆は、学識教養の誇示と流行作家になり得ない焦燥を指摘し、作品中の自己喧伝や西鶴の模倣、時事的話題の摂取と衒学趣味、散漫な構成が特徴であるとする[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 中嶋隆校訂『都の錦集』国書刊行会〈叢書江戸文庫〉、1989年11月。 
  2. ^ 長谷川強『浮世草子の研究』桜楓社、1969年。