鄧棨

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鄧 棨(とう けい、洪武29年(1396年)- 正統14年8月15日1449年9月1日))は、明代官僚は孟拡。本貫建昌府南城県

生涯[編集]

鄧伯修と鄭氏のあいだの子として生まれた。永楽22年(1424年)、進士に及第した。監察御史に任じられ、蘇州松江の諸府を巡按した。宣徳7年(1432年[1]、任期を満了して離任すべきところ、父老が宮殿に赴いて留任を請願したため、引き続き巡按御史をつとめた。ほどなく服喪のため官を去った。宣徳10年(1435年)、楊士奇の推薦により陜西按察使に任命された。正統10年(1445年)、入朝して右副都御史となった。正統14年(1449年)、オイラトエセン・ハーンが明の北辺に侵攻してくると、鄧棨は英宗の親征に扈従した。明軍が居庸関を出ると、鄧棨は英宗の帰還を求め、兵事は専属の大将に任せるよう上疏した。明軍が宣府大同に達すると、鄧棨は再び英宗の帰還を求めて上書した。いずれも回答がなかった。鄧棨は土木の変により殺害された。享年は54。資善大夫・右都御史の位を追贈された。は襄敏といった。子の鄧瑺は大理寺評事に任じられた。

脚注[編集]

  1. ^ 談遷国榷』巻22

参考文献[編集]

  • 明史』巻167 列伝第55
  • 都察院右副都御史鄧公棨神道碑(焦竑『国朝献徴録』巻55所収)