酒井忠休
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 正徳4年8月16日(1714年9月24日) |
死没 | 天明7年4月18日(1787年6月3日) |
改名 | 平次郎(幼名)、忠休 |
戒名 | 光照院殿泰誉豊刹慧仁大居士 |
墓所 | 東京都新宿区袋町の光照寺 |
官位 | 従五位下、山城守、石見守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治→家斉 |
藩 | 出羽松山藩3代藩主 |
氏族 | 左衛門尉酒井家分家 |
父母 |
父:酒井直隆、母:本多氏 養父:酒井忠予 |
兄弟 | 忠休、忠英、忠寄、娘(遠藤胤親正室) |
妻 | 正室:なし、側室:皆如院 |
子 |
水野忠体、忠崇 娘(小堀政芳正室、のち小堀政明正室) 養子:忠郷、忠起 |
酒井 忠休(さかい ただよし)は、出羽松山藩3代藩主。左衛門尉酒井家分家3代。宗家初代・酒井家次の五男・酒井了次の子孫で、庄内藩士・酒井直隆の子。母は本多氏。
経歴
[編集]享保17年(1732年)7月に先代藩主の酒井忠予の実子である忠英が廃嫡され、同年8月29日に忠休は養嗣子となり、同年11月25日の忠予の隠居で跡を継いだ。藩政改革で借上制を行なったが、養子として入った忠予に対して家臣団が反発したために失敗し、幕府から3000両を借りて窮状を凌いでいる。宝暦10年(1760年)8月、若年寄に任じられ、安永8年(1779年)12月15日に上野国内で5000石を加増され、出羽松山藩は2万5000石となった。天明7年(1787年)4月18日、74歳で死去し、跡を次男の忠崇が継いだ。忠英の子の忠郷、忠起を養子としていたが、いずれも夭折している。
将棋の名人だったといわれている。
系譜
[編集]父母
側室
- 皆如院
- 前島氏
子女
養子
略系図
[編集]酒井忠予2 | |||||||||||||||||||||||||||||||
忠英 | 忠寄(5) | 忠休3 | |||||||||||||||||||||||||||||
忠郷※a | 忠起※b | 忠崇4 | 忠郷※a | 忠起※b | |||||||||||||||||||||||||||
- 実線は実子、点線は養子を示す。
- すべての人物を掲載してはおらず、また兄弟・姉妹の順に配列してはいない。
- ※印は、同じ英字を付した人物が同一人物であることを示す。
- 太字の数字 2, 3…… は松山藩主代数を示す。
- 括弧つきの数字 (5), (6)…… は庄内藩主代数を示す。