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酒井敏明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
酒井 敏明
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 三重県桑名市
生年月日 1934年1月12日
没年月日 (2007-08-15) 2007年8月15日(73歳没)
身長
体重
179 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手 内野手
プロ入り 1956年
初出場 1956年
最終出場 1961年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

酒井 敏明(さかい としあき、1934年1月12日 - 2007年8月15日)は三重県桑名市[1]出身のプロ野球選手新聞記者。現役時代のポジションは捕手

来歴・人物

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三重県立桑名高等学校から早稲田大学に進学。東京六大学野球リーグでは在学中3回優勝。1年下のエース木村保とバッテリーを組む。4年生時の1955年秋季リーグでは、長嶋茂雄立大)らと共にベストナイン(捕手)にも選ばれた。同年12月にフィリピンで行われたアジア・アマチュア野球選手権日本代表(東京六大学リーグ選抜チーム)に選出され、木村、長嶋、森徹(早大)、佐々木信也慶大)らとともに全勝優勝に貢献。リーグ通算58試合出場、160打数33安打、打率.206、0本塁打。大学同期に二塁手松岡雅俊がいる。

1956年中日ドラゴンズに入団[1]1957年には20試合に先発マスクを被り、吉沢岳男河合保彦と定位置を争う。しかし打力に劣りレギュラーに定着することはできなかった。1958年一塁手としても起用され、1959年のみ内野手として登録される。1961年限りで退団[1]

その後は中部日本新聞社(現在の中日新聞社)に入社し、東京中日新聞(現在の東京中日スポーツ)記者となる。同社報道部次長、編集委員を経て定年の1994年まで在籍、定年退職後も同社社友として大学野球を中心に取材を続け、死の直前まで寄稿を続けていた。

2007年8月15日脳内出血のため東京都三鷹市の病院で亡くなった[2]

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1956 中日 52 99 86 2 14 1 2 0 19 4 0 1 2 0 10 0 1 11 0 .163 .258 .221 .479
1957 62 123 112 5 19 2 0 1 24 7 1 0 2 1 6 2 2 24 0 .170 .223 .214 .437
1958 54 117 105 9 27 4 0 1 34 13 2 4 3 1 7 2 1 11 1 .257 .307 .324 .631
1959 47 93 87 7 15 2 0 1 20 3 1 1 1 0 4 0 1 11 2 .172 .217 .230 .447
1960 63 85 76 3 12 2 0 0 14 9 1 1 1 2 5 0 1 12 1 .158 .214 .184 .398
1961 23 33 30 0 7 0 1 0 9 0 1 0 2 0 1 0 0 5 1 .233 .258 .300 .558
通算:6年 301 550 496 26 94 11 3 3 120 36 6 7 11 4 33 4 6 74 5 .190 .247 .242 .489

背番号

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  • 57 (1956年、1960年)
  • 4 (1957年 - 1959年、1961年)

脚注

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  1. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、240ページ
  2. ^ 酒井敏明氏死去/元プロ野球中日選手”. 四国新聞社 (2007年8月15日). 2022年8月13日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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