重見伊三雄
重見 伊三雄(しげみ いさお、1894年(明治27年)10月15日[1][2] - 1945年(昭和20年)1月27日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]本籍山口県[1][2][3]。東京府で重見熊雄陸軍中将の二男として生まれる[1]。早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し歩兵第49連隊付となる[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官した[1][4]。
1922年(大正11年)2月、陸士予科生徒隊付となり、歩兵第49連隊中隊長、第1戦車隊副官、第1戦車隊付を経て、1932年(昭和7年)2月、独立戦車第2中隊長に発令され第一次上海事変に出動した[1]。同年8月、歩兵少佐に昇進し陸軍歩兵学校付となる[1]。1933年(昭和8年)8月、戦車第2連隊付となり、同年12月から1934年(昭和9年)12月まで陸軍大学校選科で学び、卒業後、参謀本部付となる[1]。1935年(昭和10年)3月、第8師団参謀に就任し、陸軍戦車学校付を務め、1937年(昭和12年)8月、歩兵中佐に昇進[1]。1939年(昭和14年)8月、歩兵大佐に進み戦車第9連隊長に就任[1][3]。
1941年(昭和16年)12月、陸軍公主嶺学校教官となり、1942年(昭和17年)12月、四平陸軍戦車学校教官に転じた[1]。1944年(昭和19年)3月、陸軍少将に進級し戦車第3旅団長に発令され太平洋戦争に出征[1][2][3]。ルソン島の戦いに参戦したが、1945年1月、アメリカ陸軍のM4中戦車からの砲撃により戦死し、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。