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野地嘉平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
のじ かへい

野地 嘉平
生誕 (1888-09-20) 1888年9月20日
日本の旗 日本宮城県
死没 (1981-08-26) 1981年8月26日(92歳没)
日本の旗 日本東京都世田谷区中町
職業大日本帝国陸軍軍人
(最終階級は陸軍中将
親戚 野地秩嘉(孫)
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野地 嘉平(のじ かへい、1888年明治21年)9月20日[1] - 1981年昭和56年)8月26日[1][2])は、日本の大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。孫はノンフィクション作家野地秩嘉

経歴

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宮城県出身[1][3]。1911年(明治44年)5月、陸軍士官学校(23期)を卒業[1][4]。同年12月、歩兵少尉に任官した[4]

1937年(昭和12年)9月、独立守備第17大隊長に就任し、同年11月、歩兵大佐に昇進[3]。1938年(昭和13年)7月、歩兵第32連隊長に転じた[3]。1941年(昭和16年)2月、陸軍戸山学校付となり、同年8月8日、留守第20師団兵器部長に転じ、同月25日、陸軍少将に進級[3]。1942年(昭和17年)5月、戸山学校幹事に就任した[1][3]

1943年(昭和18年)2月、第39歩兵団長に発令され日中戦争に出征[1][3]宜昌に駐屯して警備活動を行う[1]。1944年(昭和19年)1月、独立歩兵第5旅団長に転じた[1][3]。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に昇進し第133師団長に親補され[3]杭州の警備を担当して終戦を迎えた[1]1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[5]

1981年8月26日、肺炎のため世田谷区中町の小倉病院で死去した[2]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』566頁。
  2. ^ a b 『現代物故者事典 1980〜1982』249頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』297頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』289、297頁。
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。

参考文献

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  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 『現代物故者事典 1980〜1982』日外アソシエーツ、1983年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。