野村立栄 (2代目)
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 天明5年(1785年) |
死没 | 弘化3年8月18日(1846年10月8日)? |
改名 | 野村立伯、立栄 |
別名 | 名:元幸、字:伯正、号:方円子、戯名:三学堂山水、莞爾亭一笑、大方有益 |
戒名 | 伯正院方円居士 |
墓所 | 守綱寺 |
主君 | 徳川斉朝、斉温、斉荘 |
藩 | 尾張藩 |
氏族 | 野村氏 |
父母 | 野村立栄 (初代)、里埜 |
兄弟 | 野村立徳 |
2代目野村 立栄(のむら りゅうえい)は 尾張藩の町医。狂歌、雅楽もよくした。
経歴
[編集]天明5年(1785年)尾張藩町医野村立栄 (初代)の長男として生まれた[1] 。初名は立伯[1]。
寛政3年(1791年)から父立栄に本道・外科・金瘡を学び、文化3年(1806年)11月29日一人立療治を許され、二段席となった[2]。また、文化3年(1806年)10月京都の山野井維寧に師事し、雅楽を学んだ[3]。
文政2年(1819年)2月28日一段席[4]。文政9年(1826年)2月父の隠居により立栄を襲名し、文政10年(1827年)6月6日若山東庵に代わり御用懸医師に就任した[5]。
菩提寺守綱寺の過去帳には記載がなく、没年は不明だが、野村家墓石の片隅に刻まれた弘化3年(1846年)8月18日が忌日とも考えられる[6]。
著書
[編集]- 『竜笛高麗之譜書』[1]
- 天保5年(1834年)『医家姓名録』[7]
- 『病家人名録』[7]
- 『カベニ耳』[7]
- 『狂歌人』[7]
- 『千歳草』[7]
- 『方円独語』[7]
- 文政3年(1820年)10月『朧闇集』[8]
- 『玉石雑誌』[7]
- 椒芽田楽・高力猿猴庵合著『岩塚田祭略鈔』[7]
- 天保9年(1838年)『玉瑛記』[9]
家族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 松村静雄「蘭方医野村劉瑛」『紙魚』第8号、愛知県郷土資料刊行会、1927年5月。
- 柳人生「尾張の蘭方医 野村立栄先生」『新旧時代』、明治文化研究会・福永書店、1927年6月。
- 堀川柳人「野村立栄」『尾張蘭学者考』安藤次郎、1933年。
- 幸田正孝、佐光昭二「野村立栄・羽栗三圭(吉雄常庵)・冨永晋二 ―『免帽降乗録』と江戸の蘭学徒―」『豊田工業高等専門学校研究紀要』第35号、豊田工業高等専門学校、2002年、doi:10.20692/toyotakosenkiyo.KJ00000175879、NAID 110000468656。
- 幸田正孝「野村立栄伝の補遺」『豊田工業高等専門学校研究紀要』第36号、豊田工業高等専門学校、2003年、doi:10.20692/toyotakosenkiyo.KJ00002452297。