金博昭
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都杉並区 |
生年月日 | 1939年1月7日(85歳) |
身長 体重 |
166 cm 66 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1967年 ドラフト9位 |
初出場 | 1968年4月19日 |
最終出場 | 1969年8月13日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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金 博昭(こん ひろあき、1939年1月7日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。
来歴・人物
[編集]帝都育英工を1年で中退し、再入学した日大二高から明治大学、日本大学へ進学したが、それぞれ一年で中退[1]。
1960年に、当時は準硬式野球部であった立正佼成会へ進んだ。翌年にチームが硬式に転向し、1963年には熊谷組、1964年にはサッポロビールの補強選手として都市対抗に出場。1965年の都市対抗にエース若生和也を擁しチーム初出場。大会史上に残る大応援団のもと、1回戦で三重交通を降すが、2回戦で松下電器に敗れた。この大会では打率.528で首位打者となる[1]。また1967年には、監督兼選手としてチームを率いた。同年都市対抗に再度出場し、打率.444を記録し優秀選手となった[1]。立正佼成会のチームメートに小川健太郎、黒江幸弘らがいる。
野球部の解散決定に伴い、1967年のドラフト会議で中日ドラゴンズから9位指名を受け、同じく指名された若生とともに、28歳という年齢で入団する[2]。これは当時の最年長記録だった(2005年に東北楽天ゴールデンイーグルスに指名された山崎隆広が29歳1ヶ月で記録更新した)。俊足好打のチャンスメーカーとしての働きが期待され、1968年の最終戦では一番打者として初の先発出場を果たす。翌年も2試合に一番打者として起用されたが、その後はあまり出場機会に恵まれず、1970年限りで現役を引退した[2]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1968 | 中日 | 36 | 35 | 31 | 2 | 7 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 10 | 0 | .226 | .294 | .226 | .520 |
1969 | 9 | 11 | 11 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .182 | .182 | .182 | .364 | |
通算:2年 | 45 | 46 | 42 | 3 | 9 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 12 | 0 | .214 | .267 | .214 | .481 |
記録
[編集]- 初出場・初打席:1968年4月19日、対大洋ホエールズ3回戦(福井県営球場)、5回裏に田中勉の代打として出場、森中千香良の前に三振
- 初安打:1968年5月2日、対阪神タイガース2回戦(中日球場)、7回裏に権藤博の代打として出場、ジーン・バッキーから単打
- 初先発出場:1968年10月15日、対大洋ホエールズ27回戦(川崎球場)、1番・左翼手で先発出場
背番号
[編集]- 49 (1968年 - 1970年)
脚注
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 金博昭 - NPB.jp 日本野球機構