菅田町
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すがたちょう 菅田町 | |
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廃止日 | 1955年3月1日 |
廃止理由 |
新設合併 益田郡下原村、郡上郡東村、武儀郡金山町、菅田町 → 益田郡金山町 |
現在の自治体 | 下呂市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方、東海地方 |
都道府県 | 岐阜県 |
郡 | 武儀郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 23.55 km2. |
総人口 |
2,574人 (1955年) |
隣接自治体 | 武儀郡金山町、上之保村、神淵村、郡上郡東村、和良村 |
菅田町役場 | |
所在地 | 岐阜県武儀郡菅田町桐洞165-6 |
座標 | 北緯35度38分38秒 東経137度07分25秒 / 北緯35.64381度 東経137.12372度座標: 北緯35度38分38秒 東経137度07分25秒 / 北緯35.64381度 東経137.12372度 |
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菅田町(すがたちょう)は、かつて岐阜県武儀郡にあった町である。
1955年(昭和30年)に合併で益田郡金山町の一部となった後、現在は下呂市の一部である。
現在の地名では、下呂市金山町菅田笹洞、下呂市金山町菅田桐洞である。
概要
[編集]- 飛騨川の支流の菅田川の上流に位置する。
- 古代、飛騨国へ向かう東山道の支路(飛騨街道[1])は、美濃国方県郡から武儀郡・加茂郡を経由し、再び武儀郡を経ていたという[2]。菅田町にはこの支路が通過し、駅(菅田駅)が設置されていたと考えられる。
- 美濃国から飛騨国への道は、高山本線や国道41号などの飛騨川沿いのルートが完成するまではこの飛騨街道が中心であった。菅田町は飛騨街道沿いの商業の町であり養蚕業や製茶業、鉱業で栄えた。
歴史
[編集]- 桐洞は往古は切原と伝えられていたが1463年(寛政4年)頃より霧原となり、1688年(元禄年間)より桐洞村となり明治年間に至った。」とされ、「笹洞は江戸中期までは篠洞とされていたが、後(年代不明)笹洞村となって明治年間に至った。」とされる[3]。
近代以前
- 776年(宝亀7年)『続日本紀巻三四』に美濃国菅田駅の名が現れる[4]。
- 平安時代 (承平年間)『和名類聚抄』の武芸郡九郷の中に、菅田郷の名がある[5]。
- 1265年(文永2年)美濃国衙領に含まれていたと考えられ、後宇多天皇領御目録に美濃国菅田荘の名がある。
- 1306年 (徳治元年)亀山天皇皇女の昭慶門院領御目録に菅田郷の名がある。
- 1334年 (建武元年)以後 美濃国守護土岐氏の領地となる。
- 戦国時代 上有知鉈尾山城主 佐藤方政の領地となる。
- 1600年頃(慶長5年)上有知藩主金森長近の加増された分に、この地が含まれていたと考えられる[6]。
- 1611年(慶長16年)上有知藩主金森長光の死去により、大久保長安が支配する幕府領となる。
- 1615年 (元和元年)尾張藩領となる。
近代以降
- 1871年(明治4年)7月14日 廃藩置県令により桐洞村・笹洞村は尾張藩だったため、初め名古屋県所属となるが、同年11月22日岐阜県所属となる
- 1872年(明治5年)3月 江戸時代からの制度を廃止し戸長制度が導入される。
- 1889年(明治22年)7月1日 - 笹洞村と桐洞村が合併し、武儀郡沙田村となる。
- 1893年(明治26年)7月14日 - 沙田村を菅田村に改称。
- 1896年(明治29年)11月20日 - 町制施行、菅田町となる。
- 1955年(昭和30年)3月1日 - 益田郡下原村、郡上郡東村、武儀郡金山町と合併し、益田郡金山町が発足。同日菅田町廃止。
町長
[編集]教育
[編集]名所・旧跡
[編集]- 嶽見桜
- 袋坂峠
- 水晶山
- 須波神社
- 笹洞白山神社
- 義民助兵衛の碑
その他
[編集]- 益田郡金山町は、益田郡(下原村)、武儀郡(金山町・菅田町)、郡上郡(東村)と、3つの郡の4つの町村を合併して誕生した町である。合併後の所属する郡については、武儀郡か益田郡かでもめたという。[要出典]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 金山町誌編纂委員会 『金山町誌』 下呂市、1975年、2005年復刻