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天領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
幕府領から転送)

天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府直轄地。天領は俗称であり、ほかに江戸幕府直轄領徳川幕府領徳川支配地幕府領幕領など様々な呼称がある。これらの呼び名は、正式な歴史用語ではない[1]

幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び[2]、年貢収取の対象となる田畑以外に交通商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった[1]

幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代からで、江戸時代に使われていた呼称ではない。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまりである。その後、天領の呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。

江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)だった。その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所[注釈 1]支配所(しはいしょ、しはいじょ)の呼び名もある[1]。江戸時代の地方書では、大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)という呼称もあった[1]

大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある[1]

上記の観点から、近年は幕府の直轄地の呼称は「天領」から「幕領」と呼ぶ傾向になっている。全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている[注釈 2]

概要

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天領は、豊臣政権時代の徳川氏蔵入地が基である[1]関ヶ原の戦い大坂の陣などでの没収地を加えて、17世紀末には江戸幕府直轄地は約400万石となった。その地からの年貢収入は江戸幕府の財政基盤となった。

京都大坂長崎など重要な都市や、佐渡金山などの鉱山湯の花から明礬を生産していた明礬温泉も天領とされた。佐渡甲斐飛騨隠岐は一国まるごと天領となった。

箱館奉行所の置かれた五稜郭(函館市)

また、蝦夷錦俵物の産地であった蝦夷地では、1799年寛政11年)には東蝦夷地(北海道太平洋岸および北方領土得撫郡域)が、1807年文化4年)には和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸樺太およびオホーツク海岸)が天領となり、このとき奉行所は宇須岸館に置かれ奥羽諸藩が警固に就いた。文化6年(1809年)に西蝦夷地から、樺太が北蝦夷地として分立。松田伝十郎による改革で、山丹交易を幕府直営とした。1821年文政4年)には一旦松前藩領に復した。1855年安政2年)になると、和人地の一部と蝦夷地全土が松前藩領から再び天領とされているが、1859年(安政6年)の6藩分領以降に奥羽諸藩の領地となった地域もあった[3]箱館奉行所は、幕末元治元年(1864年)から五稜郭に置かれた。

高山陣屋表門

幕府直轄の各領地には代官処がつくられ、郡代代官遠国奉行が支配した。また預地として近隣の大名に支配を委託したものもあった。観光地として有名な岐阜県高山市高山陣屋は、江戸幕府が飛騨国を直轄領として管理するために設置した代官所・郡代役所である。

江戸時代末期に老中首座となった水野忠邦は、天保の改革の一環として上知令江戸城大坂城の十里四方を天領とする)を発令したため、天領の石高は増えたが、周辺に領地を持つ大名から大きく非難された。

天領の規模の変遷

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豊臣政権末期には、全国検地高1850万石余の内、12.2%に相当する222万3641石余が豊臣氏の蔵入地であった。一方徳川氏の関東入国当時の蔵入地の実態は明らかではないが、所領伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野の六か国240万石余のうち、100~120万石が直轄化されていたと推定されている。関ヶ原の戦いののち、豊臣氏の蔵入地の接収を含む没収高622万石余が論功行賞の加増・加転に、さらに徳川一門や譜代大名の創出、直轄領の拡大に当てられているが、江戸幕府の直轄地も、初期においては豊臣氏のそれと大差なかったものと考えられ、江戸幕府成立時点で230~240万石が幕府直轄領であったと考えられる。

上方・関東の天領の石高・年貢高に関しては、向山誠斎著『癸卯日記 四』所収の「御取箇辻書付」により享保元年(1716年)から天保12年(1841年)までの年度別の変遷が古くより知られていたが、さらに大河内家記録「御取箇辻書付」[4]の発見により、17世紀中頃からの天領の石高の変遷が明らかになった。それによれば、天領の石高が初めて300万石を超えたのが徳川家綱政権下の万治3年(1660年)だが、寛文印知の前後には300万石を切り、延宝3年(1675年)に至って再び300万石台を回復し、以降300万石を下回ることはない。徳川綱吉政権下になると大名改易による天領石高の増加が著しく、元禄5年(1692年)に初めて400万石を突破し、宝永6年(1709年)以降400万石を下回ることはない。徳川吉宗政権下では無嗣断絶による公収が相次ぎ、享保16年(1731年)には450万石に達し、延享元年(1744年)には江戸時代を通じて最大の463万4076石余となった。その後徳川御三卿が相次ぎ分立することにより、延享4年(1747年)以降天領の石高は減少する。宝暦13年(1763年)から寛政5年(1793年)まで430万石台を維持した後、寛政7年(1795年)~寛政10年(1798年)には再び450万石台に戻るが、その後徐々に石高は減少し、天保9年(1838年)には410万石台に落ちる。天保以降では文久年間の石高の数字が残っており、幕末まで410万石台を維持したと考えられる。

なお個々の年度の石高は史料によって異なり、例えば元禄7年(1694年)の天領総石高は、『癸卯日記』所収の「御取箇辻書付」では395万5560石余とあるのに対し、『近藤重蔵遺書』所収の「御蔵入高並御物成元払積書」では418万1000石余と20万石以上の差がある。また天保9年(1838年)の天領総石高は『癸卯日記』所収の「御取箇辻書付」では419万4211石余とあるのに対し、『天保九年戌年御代官並御預所御物成納払御勘定帳』では419万1968石6斗5升8合9勺9才、天保12年(1841年)の天領総石高は『癸卯日記』所収の「御取箇辻書付」では416万7613石余とあるのに対し、同じ向山誠斎の著作である『丙午雑記』所収の「天保十二丑地方勘定下組帳」では412万2044石3斗0升8合9勺8才と、微妙に数字が異なる。

以下に『大河内家記録』と『癸卯日記』所収の「御取箇辻書付」による天領の石高・年貢高の変遷の詳細を示す。譜代の大名や旗本への加増・改易・減封や臨時の役知の支払いは天領を切り崩して行われるため、天領の所領・石高は年度毎に必ず変動する[5]

「御取箇辻書付」による天領総石高・年貢高の変遷
(慶安4年(1651年)~天保13年(1842年))
和暦年 / 西暦年 石高 (石余) 年貢高 (石余) 内米 (石余) 内金 (両余)
 
慶安4年[注1 1] 1651 1,590,910 665,280
承応元年[注1 1] 1652 1,602,290 598,320
承応2年[注1 1] 1653 1,610,910 608,760
承応3年[注1 2] 1654
明暦元年[注1 2] 1655
明暦2年[注1 3] 1656 1,224,900 427,120 275,200 60,769
明暦3年 1657 2,925,470 1,119,530 966,030 61,390
万治元年 1658 2,916,540 1,033,550 887,970 58,220
万治2年 1659 2,918,600 1,114,270 966,950 58,920
万治3年 1660 3,064,770 979,050 837,210 56,730
寛文元年[注1 3] 1661 1,132,750 422,390 274,940 58,980
寛文2年 1662 2,734,390 1,099,600 957,270 56,940
寛文3年 1663 2,663,100 880,760 764,490 46,505
寛文4年 1664 2,793,360 1,073,170 918,900 54,205
寛文5年 1665 2,829,950 1,053,970 897,760 54,960
寛文6年 1666 2,872,220 1,033,310 892,330 48,810
寛文7年 1667 2,900,950 1,042,360 895,670 51,089
寛文8年 1668 2,852,630 1,010,610 904,180 36,820
寛文9年 1669 2,925,450 965,900 815,300 53,140
寛文10年 1670 2,994,660 1,057,460 902,170 53,120
寛文11年 1671 2,974,750 1,130,750 971,390 54,720
寛文12年 1672 2,882,950 1,031,520 854,790 61,050
延享元年[注1 3] 1673 1,406,560 465,940 297,000 58,760
延享2年[注1 3] 1674 1,432,720 427,730 264,370 56,070
延享3年 1675 3,136,270 1,074,890 876,800 69,520
延享4年 1676 3,106,250 1,110,620 831,190 73,910
延享5年 1677 3,096,630 1,196,460 969,520 80,940
延享6年 1678 3,130,160 1,200,400 985,590 77,380
延享7年 1679 3,007,200 1,121,840 948,550 68,900
延享8年 1680 3,262,250 942,590 740,440 79,110
天和元年 1681 3,401,270 1,026,270 851,750 69,390
天和2年 1682 3,640,200 1,269,880 1,013,720 92,300
天和3年 1683 3,210,560 1,116,150 839,110 100,340
貞享元年 1684 3,433,770 1,177,310 910,960 97,710
貞享2年 1685 3,414,130 1,094,570 869,500 93,630
貞享3年 1686 3,554,930 1,218,940 961,189 97,380
貞享4年 1687 3,731,400 1,179,030 942,230 89,200
元禄元年 1688 3,813,000 1,242,320 981,830 96,940
元禄2年 1689 3,972,910 1,348,270 1,061,690 107,350
元禄3年 1690 3,880,000 1,385,820 1,101,120 106,130
元禄4年 1691 3,971,300 1,353,580 1,078,510 102,390
元禄5年 1692 4,013,840 1,402,120 1,114,410 107,809
元禄6年 1693 4,034,490 1,307,740 1,034,370 101,710
元禄7年 1694 3,955,560 1,315,480 1,058,510 96,610
元禄8年 1695 3,887,180 1,276,370 1,000,470 102,990
元禄9年[注1 4] 1696 4,136,900 1,314,830
元禄10年[注1 4] 1697 4,346,500 1,386,400
元禄11年[注1 4] 1698 3,889,400 1,240,430
元禄12年[注1 4] 1699 3,889,100 1,100,880
元禄13年[注1 4] 1700 3,762,800 1,138,400
元禄14年[注1 4] 1701 3,849,300 1,114,590
元禄15年[注1 4] 1702 3,841,900 1,199,490
元禄16年[注1 4] 1703 3,882,500 1,262,280
宝永元年[注1 4] 1704 3,750,300 1,178,380
宝永2年[注1 4] 1705 4,021,900 1,299,660
宝永3年[注1 4] 1706 4,001,100 1,350,830
宝永4年[注1 4] 1707 4,047,500 1,270,490
宝永5年[注1 4] 1708 3,972,900 1,251,930
宝永6年[注1 4] 1709 4,017,800 1,275,140
宝永7年[注1 4] 1710 4,150,700 1,317,380
正徳元年[注1 4] 1711 4,144,200 1,299,740
正徳2年 1712 4,167,600 1,265,970 1,022,620 97,340
正徳3年 1713 4,117,600 1,390,500 1,131,215 103,709
正徳4年 1714 4,126,000 1,316,060 1,057,963 103,226
正徳5年 1715 4,127,000 1,457,700 1,151,622 112,406
享保元年[注1 5] 1716 4,088,530 1,389,570 1,074,035 115,176
享保2年 1717 4,098,371 1,365,060 1,080,090 102,494
享保3年[注1 5] 1718 4,044,570 1,435,542 1,127,181 111,765
享保4年 1719 4,050,850 1,393,529 1,092,581 109,236
享保5年 1720 4,057,180 1,395,682 1,098,490 107,949
享保6年 1721 4,066,500 1,305,650 1,027,061 100,722
享保7年[注1 5] 1722 4,043,320 1,414,290 1,115,508 108,478
享保8年[注1 5] 1723 4,112,390 1,303,930 1,050,289 91,534
享保9年 1724 4,278,370 1,488,360 1,190,997 107,910
享保10年 1725 4,360,670 1,466,215 1,166,544 108,849
享保11年 1726 4,310,100 1,500,691 1,204,965 107,182
享保12年 1727 4,414,850 1,621,980 1,374,545 110,750
享保13年[注1 5] 1728 4,409,753 1,465,486 1,181,659 101,501
享保14年 1729 4,446,688 1,608,354 1,292,703 114,346
享保15年 1730 4,481,056 1,551,345 1,233,428 115,654
享保16年 1731 4,530,908 1,365,049 1,090,557 100,769
享保17年 1732 4,521,401 1,392,391 1,062,635 119,558
享保18年 1733 4,541,744 1,461,986 1,153,187 113,489
享保19年 1734 4,541,816 1,343,519 1,061,441 101,655
享保20年 1735 4,539,331 1,462,706 1,137,432 119,238
元文元年 1736 4,565,359 1,334,481 1,018,661 115,445
元文2年 1737 4,567,151 1,670,819 1,314,779 128,643
元文3年 1738 4,580,554 1,533,133 1,181,529 127,282
元文4年 1739 4,583,446 1,668,584 1,313,907 127,838
元文5年 1740 4,581,523 1,492,492 1,153,881 122,431
寛保元年 1741 4,586,472 1,570,388 1,228,550 123,445
寛保2年 1742 4,614,502 1,419,558 1,140,592 98,989
寛保3年 1743 4,624,664 1,636,409 1,298,149 122,666
延享元年 1744 4,634,076 1,801,855 1,462,749 123,262
延享2年 1745 4,628,935 1,676,322 1,335,114 124,001
延享3年 1746 4,634,065 1,766,214 1,422,876 124,602
延享4年 1747 4,415,820 1,551,214 1,237,156 117,334
寛延元年 1748 4,411,241 1,590,491 1,270,661 117,702
寛延2年 1749 4,397,089 1,673,573 1,353,984 117,411
寛延3年 1750 4,390,109 1,693,726 1,380,425 115,691
宝暦元年 1751 4,394,525 1,704,664 1,389,211 115,471
宝暦2年 1752 4,409,637 1,715,630 1,398,975 115,947
宝暦3年 1753 4,413,541 1,680,002 1,365,578 115,165
宝暦4年 1754 4,407,515 1,650,387 1,336,747 114,783
宝暦5年 1755 4,412,347 1,642,551 1,336,213 113,371
宝暦6年[注1 5] 1756 4,406,064 1,649,384 1,331,264 116,328
宝暦7年 1757 4,420,503 1,552,846 1,262,896 105,630
宝暦8年 1758 4,426,889 1,649,532 1,332,456 116,202
宝暦9年 1759 4,471,712 1,701,560 1,383,755 116,464
宝暦10年 1760 4,461,631 1,685,345 1,369,539 115,682
宝暦11年 1761 4,465,654 1,680,127 1,359,958 117,523
宝暦12年 1762 4,458,083 1,674,699 1,354,852 117,320
宝暦13年 1763 4,375,836 1,643,963 1,334,204 113,262
明和元年 1764 4,376,432 1,636,386 1,324,862 113,954
明和2年 1765 4,387,292 1,594,040 1,284,248 113,332
明和3年 1766 4,387,045 1,538,971 1,241,641 108,724
明和4年 1767 4,394,756 1,589,767 1,287,527 114,163
明和5年 1768 4,378,684 1,547,248 1,229,794 116,619
明和6年 1769 4,378,574 1,594,461 1,275,740 117,153
明和7年 1770 4,371,923 1,467,010 1,131,973 123,549
明和8年 1771 4,375,647 1,353,282 1,021,543 123,363
安永元年 1772 4,375,961 1,525,624 1,193,539 123,281
安永2年 1773 4,378,819 1,508,026 1,175,311 123,413
安永3年 1774 4,379,699 1,530,615 1,208,170 119,349
安永4年 1775 4,387,091 1,520,866 1,199,900 117,450
安永5年 1776 4,387,201 1,569,988 1,250,265 117,405
安永6年 1777 4,392,791 1,556,681 1,237,367 116,793
安永7年 1778 4,372,435 1,517,858 1,190,441 118,462
安永8年 1779 4,373,996 1,525,452 1,194,575 119,859
安永9年 1780 4,371,639 1,427,789 1,124,839 108,691
天明元年[注1 6] 1781 4,348,278 1,465,836 1,147,934 114,663
天明2年 1782 4,332,441 1,460,933 1,138,370 116,529
天明3年 1783 4,350,709 1,219,484 968,418 95,865
天明4年[注1 6] 1784 4,360,521 1,492,139 1,172,935 116,465
天明5年 1785 4,330,634 1,403,708 1,093,200 114,412
天明6年 1786 4,341,213 1,081,485 851,493 83,945
天明7年[注1 5] 1787 4,361,544 1,444,933 1,164,205 112,291
天明8年 1788 4,384,334 1,433,377 1,162,389 108,395
寛政元年[注1 6] 1789 4,384,279 1,410,414 1,118,088 107,612
寛政2年[注1 6] 1790 4,380,524 1,442,995 1,159,230 105,731
寛政3年 1791 4,382,813 1,356,289 1,088,669 99,550
寛政4年 1792 4,393,572 1,470,399 1,187,978 105,196
寛政5年 1793 4,393,000 1,476,278 1,199,720 103,481
寛政6年 1794 4,403,622 1,471,301 1,190,091 105,320
寛政7年 1795 4,504,516 1,545,767 1,257,316 107,963
寛政8年 1796 4,507,226 1,559,023 1,269,573 108,164
寛政9年 1797 4,501,193 1,561,828 1,274,532 107,273
寛政10年 1798 4,504,565 1,544,821 1,256,977 107,609
寛政11年 1799 4,499,020 1,501,108 1,212,107 107,801
寛政12年 1800 4,493,395 1,552,740 1,265,727 107,103
享和元年 1801 4,474,977 1,558,351 1,273,466 106,658
享和2年 1802 4,488,636 1,443,666 1,170,456 102,311
享和3年 1803 4,485,711 1,562,872 1,272,120 107,627
文化元年 1804 4,487,780 1,536,203 1,266,228 107,990
文化2年 1805 4,487,885 1,546,915 1,277,485 107,771
文化3年 1806 4,482,740 1,519,075 1,250,456 107,447
文化4年 1807 4,453,870 1,425,102 1,163,522 107,211
文化5年[注1 7] 1808 4,459,079 1,391,881 1,151,226 96,261
文化6年 1809 4,457,080 1,501,989 1,230,897 108,436
文化7年 1810 4,455,394 1,527,031 1,256,777 99,994
文化8年 1811 4,478,873 1,532,910 1,241,483 108,476
文化9年 1812 4,434,556 1,520,969 1,240,486 102,731
文化10年 1813 4,437,458 1,501,877 1,221,763 103,459
文化11年 1814 4,442,669 1,535,799 1,249,917 105,053
文化12年 1815 4,423,929 1,501,023 1,214,791 105,240
文化13年 1816 4,423,274 1,483,067 1,196,505 105,212
文化14年 1817 4,412,452 1,518,991 1,231,283 105,629
文政元年 1818 4,334,570 1,519,374 1,233,374 104,982
文政2年 1819 4,352,548 1,537,207 1,250,568 105,133
文政3年 1820 4,333,634 1,490,752 1,205,297 104,672
文政4年 1821 4,326,489 1,433,694 1,148,678 104,968
文政5年 1822 4,320,482 1,496,240 1,208,342 105,244
文政6年 1823 4,333,886 1,403,384 1,117,660 105,592
文政7年 1824 4,223,923 1,427,619 1,158,677 98,889
文政8年 1825 4,223,068 1,317,840 1,065,745 94,194
文政9年 1826 4,229,389 1,428,537 1,163,502 97,406
文政10年 1827 4,218,089 1,434,498 1,166,669 98,523
文政11年 1828 4,194,554 1,339,578 1,077,787 96,223
文政12年 1829 4,201,033 1,399,289 1,133,201 97,797
天保元年 1830 4,182,691 1,378,578 1,113,204 97,715
天保2年 1831 4,201,301 1,429,328 1,162,448 97,980
天保3年 1832 4,204,038 1,396,390 1,120,504 101,292
天保4年 1833 4,205,910 1,258,230 1,005,367 96,023
天保5年 1834 4,202,806 1,427,193 1,150,709 101,648
天保6年 1835 4,205,570 1,304,313 1,036,653 98,054
天保7年 1836 4,202,493 1,039,970 807,068 931,161
天保8年 1837 4,229,581 1,392,915 1,122,234 100,023
天保9年 1838 4,194,210 1,305,746 1,046,104 97,412
天保10年 1839 4,192,837 1,407,218 1,140,499 99,311
天保11年 1840 4,166,475 1,382,698 1,138,359 97,735
天保12年 1841 4,167,613 1,434,342 1,168,412 97,737
天保13年[注1 8] 1842 4,191,123

注釈

[編集]
  1. ^ a b c 慶安4年(1651年)~承応2年(1653年)分は「関東分御勘定帳無之」とあり、上方分のみの集計かつ年貢の米納・金納の内訳不明。
  2. ^ a b 承応3年(1654年)、明暦元年(1655年)分は「御勘定帳無之」とあり、石高・年貢高不明。
  3. ^ a b c d 明暦2年(1656年)、寛文元年(1661年)、延享元年(1673年)、延享2年(1674年)分は「上方御勘定帳無之」とあり、関東分のみの集計。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 元禄9年(1696年)~正徳元年(1711年)分は「内訳無之」とあり年貢の米納・金納の内訳不明。
  5. ^ a b c d e f g 大河内家記録「御取箇辻書付」では、享保元年(1716年)分が米107万4003石余、享保3年(1718年)分が米112万7189石余、享保7年(1722年)分が米111万5514石余、享保8年(1723年)分が米105万0911石余、享保13年(1728年)分が米118万1658石余、宝暦6年(1756年)分が米133万0262両余、天明7年(1787年)分が年貢高此取146万8770石余となっている。
  6. ^ a b c d 大河内家記録「年々御取箇辻書付」では天明元年(1830年)分が年貢高此取156万5836石余、天明4年(1784年)分が高436万0520石余、寛政元年(1789年)分が年貢高此取156万5836石余、寛政2年(1790年)分が年貢高此取142万3687石余となっている。
  7. ^ 文化5年(1808年)分は神宮文庫「勘定出納大略」では米185万1226石余となっている。
  8. ^ 天保13年(1842年)の分は勝海舟編『吹塵録』所収「天保十三年全国石高内訳」により、年貢高は不明。

日本全国の総石高に占める天領の割合は、慶長10年(1605年)における日本全国の総石高2217万1689石余に対して推定230~240万石であり、10.4~10.8%となる。また元禄10年代(1697年~1703年)の全国の石高(元禄国絵図・郷帳高)2578万6929石余に対して約400万石であり、15.5%となる。[5]さらに天保期における日本の天保年間の総石高(天保国絵図・郷帳高)は3055万8917石余と算出されているが、勝海舟編『吹塵録』所収「天保十三年全国石高内訳」によると、1842年(天保13年)の天領は総石高の13.7%に当たる420万石弱を占めた。

全国類別石高(天保13年)
類別 石高 割合 (%)
禁裏仙洞御料 - 天皇上皇女院御料地 4万0247石余 0.1
御料所高 - 幕府直轄領(天領) 419万1123石余 13.7
万石以上総高 - 大名領分 2249万9497石余 73.6
寺社御朱印地 - 寺社名義領 29万4491石余 1.0
高家並交替寄合 - 高家交代寄合(老中支配の旗本)領 17万9482石余 0.6
公家衆家領寺社除之分 - 公家領・宮家領・寺社除地[注2 1]
万石以下拝領高並込高之分 - 旗本(若年寄支配の旗本)知行所・込高地[注2 2]
335万4077石余 11.0
六拾余州並琉球国共 - 日本全国・琉球国領地総計 3055万8917石余 100.0

注釈

[編集]
  1. ^ 寺社名義の所領のうち幕府による年貢取立の対象になっていない土地。
  2. ^ 転封などの際に、知行高は変らないのにもかかわらず新旧所領の年貢率の違いによって領主が実質的減収となってしまう場合、特別に加増された石高。

天領の内訳の変遷

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徳川の関東入国直後には、直轄領は関東総奉行や代官頭によって支配されていたが、慶長年間に関東総奉行や代官頭が消滅後は、その配下の代官・手代衆が昇格して天領支配を担当するようになった。天領の管轄は当初江戸(関東)と京都・大坂(上方)に二分されていたが、寛永19年(1642年)に勘定頭が設置されると、司法・行政区域が統一され、地方の支配組織は老中→勘定奉行→郡代・代官への系統へと整備されるようになった。また江戸時代の当初から遠隔地の都市・港・鉱山には遠国奉行が置かれていたが、これらも老中支配下に統合された。

これとは別に大名に支配を委ねた大名預地があった。豊臣政権の太閤蔵入地が形を変えたもので、徳川綱吉による幕府支配機構の整備と強化のもと、貞享4年(1687年)に廃止されたが、元禄4年(1691年)には復活した。さらに正徳2年(1712年)には財政立て直しのために再び新井白石により大名預地は廃止されて代官の直支配となったが、年貢収納率の低下を招いたため、享保7年(1722年)に再び徳川吉宗により大名預地は復活した。

天領は当初関東と上方の二分に分けられていたが、享保2年(1717年)以降、関東・海道・北国・東国・畿内・中国・西国の七筋に区分されるようになった。[1]

18世紀以降の天領の石高における内訳の変遷は以下の通りである[6][7]

天領石高内訳変遷
内訳 元禄15年
(1702年)
享保15年
(1730年)
宝暦7年
(1757年)
天保9年
(1838年)
文久3年
(1863年)
郡代・代官支配地 3,867,435.700 3,602,380 3,896,000 3,284,478.26665 3,173,924.14438
   関東筋 1,199,833.906 1,076,451 1,149,400 932,014.13504 882,192.33367
   畿内筋 662,924.000 668,647 414,300 463,696.31026 521,454.30627
   海道筋 497,333.000 738,747 715,300 719,794.80472 691,916.20596
   北国筋 555,300.000 267,118 734,400 355,058.24664 240,506.50338
   奥羽筋 455,394.794 319,988 380,000 375,375.91618 378,040.55971
   中国筋 252,050.000 407,564 365,000 284,327.64181 286,813.23685
   西国筋 244,600.000 123,865 137,600 154,211.21200 173,000.99854
遠国奉行支配地 138,188.000 139,651 9,100 144,196.73099 149,406.53199
   浦賀(相模国)奉行 770 700 6,517.38299 3,456.14331
   神奈川(武蔵国)奉行 6,187.78250
   伏見奉行 4,320.000 4,494 5,000 5,166.68200 5,174.96700
   佐渡奉行 130,433.000 130,952 132,512.66600 132,572.37700
   新潟(越後国)奉行 2,015.26218
   長崎奉行 3,435.000 3,435 3,400
代官・遠国奉行支配地合計 4,005,623.700 3,742,031 3,905,100 3,428,674.99764 3,323,330.67637
大名預所 739,025 577,800 763,366.31504 752,411.43166
   関東筋 12,700 44,551.89540
   畿内筋 42,272 255,800 106,465.51481 83,296.10637
   海道筋 59,909 30,400 70,710.78082 70,710.78082
   北国筋 397,955 123,700 254,358.19707 256,785.96562
   奥羽筋 180,207 103,500 170,964.18122 166,818.83083
   中国筋 34,273 23,300 111,829.02950 103,141.17024
   西国筋 24,409 28,400 49,038.61162 27,106.68238
総石高 4,481,056 4,482,900 4,192,041.31268 4,075,742.10803

関連用語

[編集]
  • 領分(藩) - 石高1万石以上の大名が知行する領地(大名領)。
  • 知行所 - 石高1万石未満の旗本が知行する領地(旗本領)で、大名の「〜藩」とは区別して「〜領」と呼んだ。
  • 禁裏御料 - 天皇上皇 (院)女院の財政基盤となった御料地
  • 公家衆家領 - 公家宮家の財政基盤となった料所
  • 朱印地 - 由緒ある寺院神社に幕府が特例の朱印状をもって付与した所領で、表向きには公領扱いのため領内で幕府の代官が年貢を取り立てることもあった。
  • 寺社除地 - 寺社名義の所領のうち寺社が占有的に支配する権限を得た私領で、幕府への年貢も免除され収益は全て寺社のものとなった。

幕末の天領

[編集]

地方区分は現代のもの。人名は代官を務めた旗本

北海地方

[編集]

いずれも箱館奉行の「御預所」。戊辰戦争箱館戦争)後の令制国およびをカッコ内に記す。

奥羽地方

[編集]

戊辰戦争(東北戦争)後の令制国をカッコ内に記す。

関東地方

[編集]

北陸・甲信地方

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東海地方

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畿内近国

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山陽・山陰地方

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四国地方

[編集]

九州地方

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脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 元来は「代官所」は江戸幕府直轄地に置かれた代官が執務をおこなう役所のことを指す。
  2. ^ 東京書籍、帝国書院など

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年
  2. ^ 和泉清司, 『徳川幕府領の形成と展開』, 同成社, 2011年.
  3. ^ 函館市史 通説編2 第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ 序章 世界の中の箱館開港 第2節 箱館奉行の再置と箱館 1 箱館奉行の「預所」と諸任務 6藩分領と奉行「御預所」
  4. ^ 藤田覚, 「江戸時代前期の幕領石高・年貢量に関する新史料」, 『史学雑誌』, 104 (10), pp. 1777-1786 (1995年).
  5. ^ a b 大野瑞男, 『江戸幕府財政史論』, 吉川弘文館, 1996年.
  6. ^ 村上直, 「江戸幕府直轄領の地域的分布について」, 『法制史学』, (25) pp. 1-17 (1973年).
  7. ^ 村上直, 「江戸後期、幕府直轄領の地域分布について」, 『法制史学』, (34), pp. 60-74 (1982年).

参考文献

[編集]
  • 安藤博, 『徳川幕府県治要略』, 赤城書店, 1915年.
  • 小野清, 『徳川制度史料』, 六合館, 1927年.
  • 村上直, 『天領』, 人物往来社, 1965年.
  • 村上直, 荒川秀俊, 『江戸幕府代官史料』, 吉川弘文館、1975年.
  • 藤野保, 『日本封建制と幕藩体制』, 塙書房, 1983年.
  • 藤野保編, 『論集幕藩体制史』 第四巻 「天領と支配形態」, 雄山閣出版, 1994年.
  • 大野瑞男, 『江戸幕府財政史論』, 吉川弘文社, 1996年.
  • 大野瑞男編, 『江戸幕府財政史料集成』 (上巻, 下巻), 吉川弘文館, 2008年.
  • 和泉清司, 『徳川幕府領の形成と展開』, 同成社, 2011年.
  • 旧高旧領取調帳データベース
  • 『函館市史』デジタル版 - 函館市中央図書館デジタル資料館
  • 田島佳也、「近世期~明治初期、北海道・樺太・千島の海で操業した紀州漁民・商人」『知多半島の歴史と現在』 2015年 19巻 p.57-78, NAID 120005724562, 日本福祉大学知多半島総合研究所
  • 榎森進、「「日露和親条約」調印後の幕府の北方地域政策について」『東北学院大学論集 歴史と文化 (52)』 2014年 52巻 p.17-37, NAID 40020051072
  • 平成18年度 秋田県公文書館企画展 秋田藩の海防警備

関連項目

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外部リンク

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