網走郡
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網走郡(あばしりぐん)は、北海道(北見国)オホーツク総合振興局の郡。
人口27,812人、面積1,498.87km²、人口密度18.6人/km²。(2024年11月30日、住民基本台帳人口)
以下の3町を含む。
郡域
[編集]1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、網走市・大空町にあたる。
歴史
[編集]郡発足までの沿革
[編集]江戸時代の網走郡域は西蝦夷地に属し、当初は松前藩によって開かれたソウヤ場所に含まれた後、アバシリ場所が開かれていた。
江戸時代後期になると、南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え文化4年網走郡域は天領とされた。翌文化5年から文化7年にかけて白糠在勤の幕吏・大塚忽太郎の指揮で釧路国を起点に網走川沿いを下りニマンベツを経て新栗履(にくりばけ、今の網走市藻琴)に至る46里(180.7km)の網走越(国道240号の前身)が開削された。この道は、留萌など西蝦夷地の各場所に馬を配置する際などにも利用された。文化9年、漁場の鎮守とするため近江出身の藤野四郎兵衛により網走川の河口に弁財天を祀る小祠が建てられる。これは後に北見国一宮と称される網走神社の前身である。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり会津藩警固地となっていた。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して網走郡が置かれた。
郡発足以降の沿革
[編集]- 明治2年
- 明治3年6月19日(1870年7月17日) - 再び開拓使の管轄となる。
- 明治5年
- 明治8年(1875年)- 各村名に漢字を当て、網走村、勇仁村、新栗履村、能取村、最寄村、藻琴村、娜寄村、濤沸村とする。
- 明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
- 第27大区
- 2小区 : 能取村、最寄村、網走村、勇仁村、新栗履村、藻琴村、娜寄村、濤沸村
- 第27大区
- 明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての網走郡が発足。
- 明治13年(1880年)7月 - 網走郡外三郡役所(網走斜里常呂紋別郡役所)の管轄となる。
- 明治14年(1881年)7月8日 - 釧路国網尻郡を編入。同年網走村から北見町が分町。
- 明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により根室県の管轄となる。
- 明治19年(1886年)
- 明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、網走支庁の管轄となる。
- 明治35年(1902年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、以下の町村が発足。(1町2村)
- 大正4年(1915年)4月1日(1町1村)
- 能取村・藻琴村が網走町に編入、網走町が北海道一級町村制を施行。
- 北海道二級町村制の施行により、美幌村、杵端辺村、古梅村、活汲村、達媚村、翻木禽村の区域をもって美幌村(二級村)が発足。(1町1村)
- 大正8年(1919年)4月1日 - 美幌村の一部(大字達媚村・翻木禽村および活汲村・美幌村の各一部)が分立して津別村(二級村)が発足。(1町2村)
- 大正10年(1921年)4月1日 - 網走町の一部(大字網走村・最寄村の各一部)が分立して女満別村(二級村)が分立する。(1町3村)
- 大正12年(1923年)4月1日 - 美幌村が北海道一級町村制・町制を施行して美幌町(一級町)となる。(2町2村)
- 昭和14年(1939年)4月1日 - 女満別村が北海道一級町村制を施行。
- 昭和18年(1943年)
- 4月1日 - 津別村が北海道一級町村制を施行。
- 6月1日 - 北海道一・二級町村制が廃止され、北海道で町村制を施行。二級町村は指定町村となる。
- 昭和21年(1946年)
- 昭和22年(1947年)
- 昭和26年(1951年)4月1日 - 女満別村が町制施行して女満別町となる。(3町1村)
- 平成18年(2006年)3月31日 - 女満別町・東藻琴村が合併して大空町が発足。(3町)
- 平成22年(2010年)4月1日 - 網走支庁が廃止され、オホーツク総合振興局の管轄となる。
参考文献
[編集]- 角川日本地名大辞典 1 北海道