金昌圭
金 昌圭 김창규 | |
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生誕 |
1920年3月7日 日本統治下朝鮮京畿道始興 |
死没 |
2020年11月9日(100歳没) 大韓民国 |
所属組織 |
大日本帝国陸軍 大韓民国空軍 |
最終階級 |
大尉(日本陸軍) 中将(韓国空軍) |
金 昌圭(キム・チャンギュ、김창규 1920年3月7日 - 2020年11月9日)は、大日本帝国陸軍及び大韓民国の軍人、政治家、企業家。最終階級は大尉(日本陸軍)、中将(韓国空軍)。
本貫は金寧金氏(김녕김씨)。号は東海(동해)または東雲(동운)。仏教徒[1]。
経歴
[編集]1920年3月、京畿道始興に生まれる。京畿中学校卒業。1941年7月、陸軍士官学校第55期卒業。陸軍航空整備学校卒業。1943年3月1日、陸軍中尉[2]。1944年12月1日、陸軍大尉[3]。第2次世界大戦末期は飛行第25戦隊整備隊長[4]。飛行第48戦隊長の鏑木健夫少佐(後に航空自衛隊空将)とは親交が深かった仲と言われ、一式戦で揚子江を越えて漢口に降りて浩然の気を養う時には隊長機を預かり、1976年春に韓国空軍の親睦団体であるボラメ会(보라매회)の招待を受けた時には二人で懐かしい昔話に弾んでいた[4]。終戦時は飛行第25戦隊附[5]。
1948年、ソウル大学校機械工学科卒業、同大学航空工学科講師。
1950年3月、韓国陸軍入隊。任大佐、国防部兵器行政本部長。朝鮮戦争初期のソウル防衛で使われた30ポンド爆弾を設計、製作した[6]。同年12月、韓国空軍に転科し参謀総長補佐官。
1951年7月6日、准将進級と同時に空軍本部行政参謀副長[7][8]。同年12月、アメリカ空軍指揮幕僚大学に留学[9][10]。
1953年、国防部第3局長。同年6月1日、休戦会談韓国空軍代表[12]。
1954年、軍事休戦委員会委員、任少将。
1955年3月、空軍本部企画参謀副長。在任中、空軍技術将校制度を確立[13]。
1956年12月1日、空軍参謀次長[14]。
1958年12月、空軍参謀総長、任中将。F-86Dを導入して第108迎撃飛行大隊を創設[6]。
1960年8月、予備役編入。
1962年8月、大韓重石鉱業会社社長。
1964年、忠州肥料会社顧問。
1965年、嶺南化学会社社長。
1970年、一宇海運会社理事。
1973年、第9代国会議員(統一主体国民会議、維新政友会)。
大林専門大学学長・学校法人大林学院理事長、韓国専門大学協議会理事兼副会長[1]。
勲章
[編集]- 無星花郎武功勲章 - 1950年
- 金星忠武武功勲章 - 1951年
- 花郎武功勲章 - 1951年
- 銀星乙支武功勲章 - 1952年
- 大統領綬章 - 1952年
- 共匪討伐記章 - 1952年
- 金星乙支武功勲章 - 1953年
- 朝鮮戦争従軍記章 - 1953年
- 銀星乙支武功勲章 - 1954年
- 大統領綬章 - 1954年
- 国連従軍記章 - 1954年
- 功労勲章 - 1957年
出典
[編集]- ^ a b “대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2022年3月12日閲覧。
- ^ “第38号 昭和18年3月1日 陸軍異動通報” (PDF). アジア歴史資料センター. pp. 1019. 2019年4月5日閲覧。
- ^ “第247号 昭和19年12月1日 陸軍異動通報(1)” (PDF). アジア歴史資料センター. pp. 891. 2019年4月5日閲覧。
- ^ a b 鏑木健夫将軍追想録編纂委員 編『鏑木健夫将軍追想録 : めじゃねーよ』新郷・鏑木両空将追想録刊行会、1986年、342頁。
- ^ 松原慶治 編『終戦時帝国陸軍全現役将校職務名鑑』戦誌刊行会、1985年、522頁。
- ^ a b “공군 발전에 한평생 바친 스승의 은혜 감사합니다” (朝鮮語). 국방일보. (2016年9月11日) 2018年7月31日閲覧。
- ^ “6.25전쟁사 제9권-휴전회담 개막과 고지쟁탈전” (PDF). 韓国国防部軍事編纂研究所. p. 774. 2018年7月30日閲覧。
- ^ “政府(정부) 人事(인사) 發令(발령)” (朝鮮語). 부산일보. (1953年7月10日) 2019年10月27日閲覧。
- ^ “<295>제3話 빨간 마후라 -45-공군 첫 단독 작전” (朝鮮語). 국방일보. (2005年6月1日) 2018年7月30日閲覧。
- ^ “美國(미국) 留學(유학)가는 아홉 명의 將校(장교)” (朝鮮語). 부산일보. (1951年12月25日) 2019年10月27日閲覧。
- ^ “空軍 首腦 異動” (朝鮮語). 부산일보. (1953年5月2日) 2019年10月27日閲覧。
- ^ “6·25전쟁사 제11권-고지쟁탈전과 정전협정 체결” (PDF). 韓国国防部軍事編纂研究所. p. 107. 2018年7月30日閲覧。
- ^ “한국 이공계 역사 세운 '두 거목' 대덕서 만난다” (朝鮮語). 대덕넷. (2012年5月21日) 2018年7月30日閲覧。
- ^ “連続刊行物 東亜日報「中將으로 昇進 張德昌 空軍參謀總長」” (韓国語). 国史編纂委員会. 2019年11月16日閲覧。
- ^ “'F-86D 전투기 도입' 김창규 전 공군총장 별세” (朝鮮語). 연합뉴스. (2020年11月9日) 2020年11月9日閲覧。
参考文献
[編集]- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。
- 박동찬 (2014) (PDF). 통계로 본 6·25전쟁. 국방부 군사편찬연구소. ISBN 979-11-5598-010-1
- “김창규(金昌圭)” (韓国語). 大韓民国憲政会. 2014年5月29日閲覧。
- “第5代参謀総長 金昌圭中将” (韓国語). 大韓民国空軍. 2015年10月16日閲覧。
軍職 | ||
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先代 崔用徳 (空軍本部参謀副長) |
大韓民国空軍本部行政参謀副長 初代:1951.7.6 - 1953.5.1 |
次代 張徳昌 |
先代 金貞烈 |
大韓民国空軍士官学校校長 第5代:1953.5.1 - 1953.12.1 |
次代 申尚澈 |
先代 張徳昌 |
大韓民国空軍参謀総長 第5代:1958 - 1960 |
次代 金信 |
公職 | ||
先代 蔡秉徳 |
大韓民国国防部兵器行政本部長 第4代:1950.8 - 1950.11.30 |
次代 李鍾賛 |