金永春
金永春 김영춘 | |
---|---|
生年月日 | 1936年3月4日 |
出生地 | 日本統治下朝鮮咸鏡南道甲山郡(現在の両江道普天郡) |
没年月日 | 2018年8月16日(82歳没) |
死没地 | 朝鮮民主主義人民共和国平壌直轄市 |
出身校 |
万景台革命学院 金日成総合大学 フルンゼ軍事大学 |
所属政党 | 朝鮮労働党 |
称号 |
金日成勲章、金正日勲章 共和国英雄 朝鮮人民軍元帥 |
最高人民会議代議員 | |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1998年9月 - 2018年8月16日 |
最高指導者 |
金正日(1994年 - 2011年) 金正恩(2011年 - ) |
朝鮮労働党軍事部長 | |
在任期間 | 2012年4月 - 不明 |
朝鮮労働党中央委員会政治局委員 | |
在任期間 | 2010年9月 - 2016年5月 |
在任期間 | 2010年9月 - 2018年8月16日 |
在任期間 | 2010年9月 - 2016年5月 |
その他の職歴 | |
人民武力部長 (2009年2月 - 2012年4月) | |
朝鮮民主主義人民共和国国防委員会副委員長 (2007年4月 - 2014年4月) | |
朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員 (1998年9月 - 2014年4月) | |
朝鮮人民軍総参謀長 (1995年10月 - 2007年4月) |
金永春 | |
---|---|
各種表記 | |
チョソングル: | 김영춘 |
漢字: | 金永春 |
発音: | キム・ヨンチュン |
日本語読み: | きん・えいしゅん |
英語表記: | Kim Yong-chun |
金 永春(キム・ヨンチュン、日本語読み:きん・えいしゅん。1936年3月4日 - 2018年8月16日[1])は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍人、政治家。朝鮮人民軍総参謀長、人民武力部長、人民武力省総顧問、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会副委員長、朝鮮労働党中央委員会政治局員、朝鮮労働党中央軍事委員会委員を歴任。軍事称号は朝鮮人民軍元帥。
金英春と表記されることもある。[2]
経歴
[編集]咸鏡北道会寧(北朝鮮公式発表は両江道普天郡[3]、1936年の時点は咸鏡南道甲山郡)出身、朝鮮解放後、万景台革命学院と姜健総合軍官学校入学[3]。ソ連のフルンゼ名称軍事アカデミーに留学後、軍部内で台頭。1971年から朝鮮人民軍総参謀部上級参謀、軍団参謀部副部長、1979年から総参謀部局長を務めた。[3]
1980年、党中央委員候補に選出。1982年から朝鮮人民軍連合部隊と総参謀部の責任ある位置で活動し。[3]
1986年に党中央委員に選出。同年12月に総参謀部作戦局長に任命。1992年には大将に昇格した。しかし作戦局長の当時、過誤を犯したことによって、地方の旅団の副旅団長に左遷され、その後、軍需動員総局長を経て、1994年3月、人民軍第6軍団長に任命。
1994年7月の金日成の死後、反金正日運動を抑え、金正日の信任を得たとされる。1995年10月8日、人民軍次帥の称号を授与され[4]、同月には朝鮮人民軍総参謀長に任命された[5]。以後、12年にわたって軍総参謀長を務めた。
1995年以降、朝鮮人民軍が行ってきた韓国に対する挑発行為の数々は、金永春が主導したものとみられている[6]。 1996年9月の江陵浸透事件、1998年6月の東海岸潜水艦浸透事件、8月のテポドン1号発射事件、1999年6月の第一次延坪海戦、2002年6月の第二次延坪海戦、2006年10月の北朝鮮核実験などは、いずれも彼が軍総参謀長だった時期に起こった事件である[6]。
1998年9月5日、第10期最高人民会議第1回会議において国防委員会委員に選出[7]。2007年4月11日、第11期最高人民会議第5回会議において国防委員会副委員長に選出され、総参謀長を退任した。2008年9月9日に行われた建国60周年の軍事パレードでは、金正日が不在の中「偉大なる金正日同志万歳!」と演説。
2009年2月11日、人民武力部長に任命。金正日の側近の一人となり[8]、金正日の現地指導には、常に金永春の姿があったという。
2010年10月28日の第3回党代表者会において党政治局委員に補選され、党内序列第6位に昇格した[9]。
2011年8月11日、韓国の聨合ニュースは、金正恩への権力継承が進む中で、金永春の威信が「無力化」したと言う韓国のハンナラ党関係者の発言を報道した。同関係者は「このため、北朝鮮軍部内で混乱が生じているのはもちろん、状況次第では朝鮮半島情勢が危機的な状況につながる恐れがある」と述べた。その上で、「北朝鮮軍部内の強硬派の動きを注視する必要がある」とした[10]。
ただ、このニュースが伝えられた後の8月20日に金正日がロシアを訪問し、そして、24日にロシア連邦大統領ドミートリー・メドヴェージェフと会談した際に軍服姿で金正日に同行している姿がニュース映像で確認できるため、聨合ニュースが伝えた金永春の権威失墜のニュースの真相は定かではない[11]。
2011年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国建国63周年記念の労農赤衛隊のパレードの際に再び演説。同年12月の金正日国葬に際して葬儀委員会序列第5位となり[12]、告別式では張成沢らとともに霊柩車に付き添って行進した[8]。
2012年4月に人民武力部長を退任し[13]、同4月11日の第4回党代表者会において党中央委員会部長に転出した[14]。
2014年4月9日の第13期最高人民会議第1回会議で国防委員会副委員長に選出されず同職を退任[15]。同年、人民武力省総顧問となった[12]。
2016年4月14日、党中央委員会・党中央軍事委員会・国防委員会の決定により、李乙雪死去後に空席となっていた人民軍元帥に昇格した[16][17]。
2016年5月に開催された朝鮮労働党第7次大会で党中央委員に選出されたが[18]、党中央委員会政治局、同党中央軍事委員会の名簿に掲載されず、政治局員と中央軍事委員会委員からの退任が確認された[19]。
2018年8月16日3時10分、死去、82歳没[3][20]。金正恩朝鮮労働党委員長が国家葬儀委員長に就任、同月20日、国葬[12]。
人物
[編集]『平壌の水槽』の著者姜哲煥は、金永春を「金正日のコード(好み、考え)だけに合わせる」機を見るに敏な政治的嗅覚の持ち主である反面、残忍で恐ろしい一面を有していたと指摘している[6]。金正恩の生母高容姫を「平壌のオモニ」と呼んで顕彰、賞賛する活動を大々的に展開したのが金永春だったといわれる[6][注釈 1]。北朝鮮の体制に不満をもつ将校数百人が処刑される事件(第6軍団事件)が1996年にあったが、特殊部隊を派遣して全員逮捕、全員処刑したのも金永春であった[6]。目撃者の証言では、逮捕された高級軍人たちは服を全部はがされ、手足を縛られて食肉用冷凍車に吊るして運ばれたという[6]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “金永春氏が死去 北朝鮮元人民武力相”. 日本経済新聞. 日本経済新聞社. (2018年8月17日) 2018年8月17日閲覧。
- ^ “金総書記の訪ロに軍総参謀長が一歩遅れて合流”. 中央日報. 2023年4月22日閲覧。
- ^ a b c d e “金永春氏が逝去”. 朝鮮中央通信. 2022年7月20日閲覧。
- ^ 『アジア動向年報』1995年版, p. 92, 重要日誌
- ^ 10月12日判明。『アジア動向年報 1995年版』, p. 92, 重要日誌
- ^ a b c d e f g 李相哲(2011)pp.195-197
- ^ http://d-arch.ide.go.jp/browse/pdf/1998/102/1998102REF.pdf
- ^ a b “故金正日総書記の側近、元人民武力相が死去”. 朝日新聞. 朝日新聞社. (2018年8月17日). オリジナルの2020年12月9日時点におけるアーカイブ。 2018年8月17日閲覧。
- ^ 中川雅彦「2010年の朝鮮民主主義人民共和国 後継体制構築の準備始まる」『アジア動向年報』第2011巻、日本貿易振興機構アジア経済研究所、2011年、68頁、CRID 1390576535082580736、doi:10.24765/asiadoukou.2011.0_47、ISSN 0915-1109。
- ^ “北朝鮮人民武力部長の威信が失墜、正恩氏側と対立か”. 聨合ニュース. (2011年8月11日) 2011年8月16日閲覧。
- ^ “キム総書記、ロシアから帰国の途に”. TBSnewsi. (2011年8月25日) 2011年8月25日閲覧。
- ^ a b c “金永春元人民武力相が死去=葬儀委員長に正恩氏-北朝鮮”. 時事ドットコムニュース. 時事通信社. (2018年8月17日). オリジナルの2020年12月9日時点におけるアーカイブ。 2018年8月17日閲覧。
- ^ 「序列3位に一気に上昇の崔竜海書記 金正覚氏は人民武力部長」『産経新聞』2012年4月11日
- ^ 「朝鮮労働党第4回代表者会議が行われる」『ネナラ』2012年4月12日
- ^ 최룡해, 장성택 자리 메우고 명실상부한 '北 2인자'로 朝鮮日報 2014年4月10日
- ^ “北朝鮮の李明秀総参謀長、大将から次帥に昇進”. 中央日報日本語版. (2016年4月16日) 2016年4月16日閲覧。
- ^ “北朝鮮、軍長老格に元帥称号授与 金正恩氏側近の総参謀長には軍次帥”. 産経新聞. 共同通信. (2016年4月15日) 2016年4月16日閲覧。
- ^ 「朝鮮労働党第7次大会公報」(朝鮮語)『労働新聞』2016年5月10日。オリジナルの2018年8月6日時点におけるアーカイブ 。
- ^ “朝鮮勞動黨19人政治局委員名單出爐”. 大公網 (2016年5月10日). 2016年6月1日閲覧。
- ^ “金正日氏側近の金永春氏が死去 北朝鮮の軍統制”. 47News. 共同通信社. (2018年8月17日). オリジナルの2020年12月9日時点におけるアーカイブ。 2018年8月17日閲覧。
参考文献
[編集]- 李相哲『金正日と金正恩の正体』文藝春秋〈文春新書〉、2011年2月。ISBN 978-4-16-660797-6。
- 中川雅彦「「偉大な首領」の死去 : 1994年の朝鮮民主主義人民共和国」『アジア動向年報 1995年版』、アジア経済研究所、1995年、67-90頁、doi:10.20561/00038838、hdl:2344/00002235、ISBN 9784258010950。「ZAD199500_010」
朝鮮民主主義人民共和国
|
---|