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金沢千秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

金沢 千秋(かなざわ ちあき、明和2年(1765年) - 文政5年12月20日1823年1月31日))は、江戸時代後期の旗本。幼名を亀松、通称は瀬兵衛。官途は従五位下大蔵少輔。父は勘定組頭や一橋家勘定奉行を務めた金沢安貞(瀬兵衛)、母は植村正直娘。妻は久世広厚娘、後妻に吉田直頼娘、久松助右衛門娘、安藤重忠娘。知行は200俵で、佐渡奉行時代はほかに役料1500俵100人扶持。

経歴

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天明6年(1786年)6月14日、勘定となり、のちに各地を巡検する。寛政4年(1792年)4月勘定奉行久世広民関東郡代を兼帯した時に郡代附勘定となる。のちに久世の推挙により、同年11月4日に勘定組頭格となり、寛政6年(1794年)1月には、「荒地起返井免直し等改方」として関東郡代支配地を巡検した。同年12月26日勘定組頭に栄進した。寛政11年(1799年)関東郡代が中川忠英となったのち郡代支配地を巡検した。寛政12年(1800年)、巡検使として越後国田沢(現新潟県十日町市)に逗留した時この地方の文化習俗を「越能山都登」(こしのやまつと)に著す。他に、関東や東海の地方の河川や街道の巡検記録として「川めぐり日記」がある。

寛政12年(1800年)11月8日勘定吟味役となった。文化8年(1811年)2月9日より佐渡奉行となる。その頃の金銀山の稼動していた間歩は、青盤間歩と鳥越間歩の二間歩のみで、10日間の鏈の代銀は銀一貫目ほどしかなかったが、雲子間歩・青柳間歩の再開発をして、失業者を雇用した。これらの費用として、役人が積立てた出目銭4000貫文を上納させてこれをあてた。文化10年(1813年)には中尾間歩を開発、文化12年(1815年)には清次間歩の開発量産をもって、金銀山の危機を脱するに至る。佐渡奉行時代の知行は200俵、役料1500俵100人扶持。文化13年(1816年)7月24日より100俵加増となり長崎奉行となり9月に着任、文政元年(1818年)4月28日まで務め、新番頭に転じた。

参考文献

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  • 寛政重修諸家譜
  • 越佐人物誌(牧田利平編 野島出版 1972年)
  • 佐渡相川郷土史事典(相川町史編纂委員会編 田中圭一著)
  • 寛政譜以降旗本家百科事典 第2巻(東洋書林、1997年)p.839

関連項目

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