金谷元朗
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金谷元朗 | |
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生誕 |
1877年3月??日 (明治10年3月) 東京府豊多摩郡角筈新町 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 陸軍士官学校 |
職業 |
軍人 柔術家、接骨師 |
流派 | 戸塚派楊心流 |
活動拠点 | 修道館 |
体重 | 二十余貫(約75㎏) |
肩書き | 大日本武徳会柔道範士 |
子供 | 金谷元義 |
親 | 金谷七次郎元良 |
金谷 元朗(1877年3月〈明治10年〉- ?)は、日本の軍人・柔術家である。
経歴
[編集]1877年3月(明治10年)金谷七次郎元良の長男として東京府豊多摩郡角筈新町に生まれる[1]。父の金谷元良は戸塚派楊心流の戸塚彦介英俊の門人であり丹南藩柔術指南役を務めた人物であった。
父の金谷元良は子には何も教えないという方針だったため、金谷元良の兄弟子の今田七郎正儀から戸塚派楊心流を教わった。1895年(明治28年)に今田正儀に入門し、1901年(明治34年)に免許皆伝を受けた。戸塚派楊心流入門前は講道館に籍を置いおり1888年(明治21年)の入門記録が残っている[2]。後に講道館から有段者待遇を受けた。
中学卒業後に陸軍士官学校に入る。陸軍士官学校は13期卒であった[3]。
明治35年に少尉、明治37年に中尉、明治42年に大尉となった。日露戦争に参加して功をもって動六等旭日章を授かった。後に従六位動五等となった。1913年(大正2年)に予備役となった。
1913年に麻布笠町に楊心流道場を開いた[3]。第二次世界大戦前には600余名の弟子がいた。戸塚派楊心流の主な弟子に金谷の後を継いだ保立謙三、香取神道流の杉野嘉男、青木伊太郎などがいた。
1923年9月(大正12年)関東大震災が起きた際、傷病者救護のため金谷元朗の道場が臨時の救護所となった[4]。
1926年(大正15年)大日本武徳会柔道教士を受けた。
1937年(昭和12年)に大日本武徳会柔道範士となった。
攻玉社の柔術師範を務めた。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 毎日通信社 編『東京社会辞彙』毎日通信社、1913年
- 藤原稜三 著『神道揚心流の歴史と技法』株式会社創造、1983年
- 東京市 編『東京震災録 別輯』東京市、1927年
- 中等教科書協会 編『中等教育諸学校職員録 昭和七年五月現在 第二十九版』中等教科書協会、1932年
- 宮内省 監修『昭和天覧試合:皇太子殿下御誕生奉祝』大日本雄弁会講談社,1934年
- 丸山三造 編『世界柔道史』恒友社、1967年
- 「講道館〃最大のライバル〃戸塚派楊心流の実像を求めて」,『月刊空手道別冊 極意』1997年春号, p22,福昌堂
- 帯刀智「水戸第三高校"やわら"クラブの技法」,『月刊秘伝』2016年12月号,p108,BABジャパン