金鶴羽
表示
金鶴羽 | |
---|---|
法務衙門大臣署理 | |
本貫氏派 | 金海金氏 |
字号 | 子皐 |
諡号 | 獻愍 |
誕生年 | 同治元年(1862年) |
没死 | 高宗31年10月3日(1894年10月31日) |
金鶴羽 | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 김학우 |
漢字: | 金鶴羽 |
金 鶴羽(きん かくう、1862年 - 1894年10月31日)は、李氏朝鮮末期の文臣。金弘集内閣で甲午改革を主導し、李埈鎔などが送った刺客によって暗殺された。
生涯
[編集]1894年8月15日(旧暦7月15日)に法務衙門協辦[1]、同年8月19日(旧暦7月19日)、法務衙門大臣署理に任命された[2]。1894年10月31日(旧暦10月3日)の夜8時頃に李埈鎔などが送った刺客田東錫と崔亨植によって暗殺された[3]。
人物
[編集]1885年に2か月間、日本の電信局にて電信電話技術を学んだことがあり、日本語もうまく、指導に当たった加藤木重教は、一電信技士で終わるような人物ではないと感じたとのちに記している[4]。
参考文献
[編集]- ^ “김홍집 등에게 관직을 제수하다” [金弘集などに官職を除授]. 高宗實錄. 国史編纂委員会 (1894年7月15日). 2021年1月23日閲覧。 “十五日。以金弘集爲議政府總理大臣、金壽鉉爲左贊成、李裕承爲右贊成、朴容大、李重夏、李泰容、曺寅承、兪吉濬爲都憲、李載冕爲宮內府大臣、金宗漢爲協辦、閔泳達爲內務衙門大臣、李埈鎔爲協辦、金允植爲外務衙門大臣、金嘉鎭爲協辦、魚允中爲度支衙門大臣、金喜洙爲協辦、尹用求爲法務衙門大臣、金鶴羽爲協辦、徐正淳爲工務衙門大臣、韓耆東爲協辦、朴定陽爲學務衙門大臣、鄭敬源爲協辦、李奎遠爲軍務衙門大臣、趙羲淵爲協辦、嚴世永爲農商衙門大臣、鄭秉夏爲協辦、安駉壽爲警務使。”
- ^ “군국기무처에서 이준용과 김학우에게 내무대신과 법무대신을 서리할 것 을 아뢰다”. 高宗實錄. 国史編纂委員会 (1894年7月19日). 2021年1月23日閲覧。 “軍國機務處啓:「內務大臣閔泳達、尙未肅命;法務大臣尹用求、陳疏未承批。實施日期在卽、事務俱係緊急、內務協辦李埈鎔、法務協辦金鶴羽、竝令署理何如?」允之。”
- ^ “이준용 등을 심리하고 판결을 선고하다” [李埈鎔などを審理して判決を宣告]. 高宗實錄. 国史編纂委員会 (1895年4月19日). 2021年1月23日閲覧。
- ^ 朝鮮人見学に来る『重教七十年の旅. 前編』加藤木重教、電気之友社、1928年