鈴木満 (サッカー選手)
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名前 | ||||||
カタカナ | スズキ ミツル | |||||
ラテン文字 | SUZUKI Mitsuru | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1957年5月30日(67歳) | |||||
出身地 | 宮城県仙台市 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW、MF | |||||
ユース | ||||||
1973-1975 | 宮城県工業高校 | |||||
1976-1979 | 中央大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1980-1989 | 住友金属工業 | |||||
監督歴 | ||||||
1989-1992 | 住友金属工業 | |||||
1994-1996 | 鹿島アントラーズサテライト | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
鈴木 満(すずき みつる、1957年5月30日 - )は、宮城県仙台市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはFW、MF。
来歴
[編集]三人兄弟(弟及び妹が各1人)の長男であり、実家は農家であった[1]。小学3年よりサッカーを始め、宮城県工業高校でもサッカー部に所属したが全国大会へ出場することは叶わなかった[2]。
高校卒業後、1976年に中央大学に進学してサッカー部に所属。金田喜稔が同期であり、在学中はユース代表に選出された[3]。
大学卒業後の進路について、両親からは仙台に帰郷するように言われていたため東北電力に入社する用意をしていたが、最終的には大学監督であった丸山義行の薦めもあり住友金属工業に入社した[4]。
住友金属工業では石炭や鉄鉱石の管理業務をする傍らで蹴球団に入団し3年目からキャプテンを務めて、1989年に現役を引退した[4][5]。
1989年より住友金属工業の監督に就任し[6]、1992年まで監督を務めた[7]。住友金属工業が鹿島アントラーズとしてプロ化した1992年より鹿島のヘッドコーチに就任した[7]。
1996年より鹿島の強化責任者に就任[8]し、2014年時点で鹿島の運営会社である株式会社鹿島アントラーズエフ・シーの常務取締役フットボールダイレクターを務めている[9]。2014年4月、日本サッカー協会の技術委員会の委員に就任した[10]。
2021年12月25日、鹿島のフットボールダイレクターを退任した。今後は強化アドバイザーに就任する予定としている[11]。
川崎で要職に就いた庄子春男氏とはTVや雑誌で対談もするなど親交がある[12][13]。
所属クラブ
[編集]指導歴
[編集]- 1989年 - 1991年 住友金属工業:監督
- 1992年 - 鹿島アントラーズ
- 1992年4月 - 1994年2月 コーチ
- 1994年3月 - 1996年2月 コーチ兼サテライト監督
- 1996年2月 - 2000年11月 強化育成課課長
- 2000年11月 - 2005年3月 強化部長
- 2005年4月 - 2010年7月 取締役強化部長
- 2010年7月 - 2019年7月 常務取締役 強化部長
- 2019年8月 - 2021年12月 取締役 フットボールダイレクター
- 2022年 - 強化アドバイザー
参考文献
[編集]- 田中滋『常勝ファミリー・鹿島の流儀』出版芸術社、2009年6月。ISBN 4882933667。
脚注
[編集]- ^ 田中 p.42
- ^ 田中 p.43
- ^ 田中 p.45
- ^ a b 田中 p.47
- ^ “プロの神髄、ジーコに学ぶ 鹿島強化部長”. 日本経済新聞 (2010年9月8日). 2015年3月13日閲覧。
- ^ 田中 p.50
- ^ a b 田中 p.56
- ^ 田中 p.72
- ^ “新技術委員長に鈴木満氏浮上”. スポーツニッポン. (2014年6月25日) 2015年3月13日閲覧。
- ^ 各種委員会 (PDF) 日本サッカー協会 (2014年4月10日). 2015年3月15日閲覧
- ^ 『フットボールダイレクターの交代について』(プレスリリース)鹿島アントラーズ、2021年12月25日 。2021年12月25日閲覧。
- ^ “Jリーグ強豪クラブ 宮城県出身同級生GM対談”. 2022年9月16日閲覧。
- ^ 『No.1420「Jリーグクラブ番付」』日本スポーツ企画出版社、2022年5月26日。