鈴木石橋
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鈴木 石橋(すずき せっきょう、1754年(宝暦4年) - 1815年4月4日(文化12年2月25日))は、江戸時代後期の儒学者、篤志家。
下野国都賀郡鹿沼宿石橋町(現在の栃木県鹿沼市石橋町)出身。正名は之徳、号は澤民。通称は四郎兵衛。その居所から石橋先生と呼ばれた[1]。豪農の出身。若年時に江戸の林家塾(後の昌平黌)に遊学し、帰郷後は自宅に私塾・麗澤之舎(りたくのや)を開き、蒲生君平らを育てた。貧民救済の活動を盛んに行い、貧民の妊産婦に衣服や金銭の施しを行って堕胎間引を予防したり、飢饉に備え私財を投じて米を備蓄した。天明の飢饉の際も活躍している。
晩年には、宇都宮藩主戸田忠翰に招聘されて藩儒となり、藩士の教育にもあたった。
主な著作に「周易象儀」「惻隠余情」「三孝子記」などがあるが出版を許さなかったという[1]。著作と蔵書は鹿沼市指定文化財となっている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「宇都宮藩に於ける堕胎間引の矯正と鈴木石橋」『堕胎間引の研究』中央社会事業協会社会事業研究所、1936年
- 鹿沼市教育委員会事務局文化課文化財係編『鈴木石橋と麗澤之舎 : 鹿沼の知と文化の潮流』かぬま文化・スポーツ振興財団、2015年12月
- 読売新聞栃木版 2015年12月7日 35面掲載。