鈴木縫殿
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鈴木 縫殿(すずき ぬい、1838年(天保9年) - 1903年(明治36年)1月31日)は、幕末の水戸藩士。本圀寺勢の主要人物。鈴木靱負重照の次男で、母は大場景命の娘。諱は初め重睦、のち重義。通称は内蔵次郎、のち靱負、縫殿。
生涯
[編集]鈴木重好を祖とする重臣・鈴木石見守家の分家に生まれる[1]。嘉永3年(1850年)4月、兄・内蔵之助重道の養子となり、500石の家督を継ぐ。小普請組から使番、寄合指引を経て、安政6年(1859年)4月に新番頭、同年9月に書院番頭となる。戊午の密勅が藩に下された際には、江戸へ上って藩内の紛糾の鎮静化に努めた。万延元年(1860年)3月から江戸詰となる。
文久3年(1863年)、一橋慶喜の上洛に随行して京都に滞在し、在京の藩士(本圀寺勢)や領民らを率いて藩主慶篤の弟昭訓、次いで昭武を補佐する。
天狗党の乱のさなかの元治元年(1864年)5月、帰藩して執政となる。江戸藩邸が諸生党に掌握されると一時免職となるが、7月に執政に復職する。禁門の変に際して再び上洛し、慶応2年(1866年)に在京の藩士を率いて京都守衛に任じられる。
慶応4年(1868年)1月、藩政回復の勅を受けて帰藩し、水戸城に入る。明治4年(1871年)、大参事に任じられる。