銭弘僔
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銭 弘僔(せん こうそん、宝大2年(925年)- 天福5年4月29日[1](940年6月7日))は、中国五代十国時代の呉越の王世子。文穆王銭元瓘の五男。同母弟は忠遜王銭弘倧。
人物
[編集]銭元瓘と魯国夫人鄜氏の間の子として生まれる。上には4人の兄がいたが、みな養子であったため弘僔が実質的な長男にあたる。銭元瓘がほぼ40歳になっても実子を儲けないと、本妻の馬氏(恭穆夫人)の勧めにより妾を迎え、その後から弘僔を始めとする息子が相次いで生まれたと伝わる。天福2年(937年)4月、父王が呉越王に冊封されたことに伴い世子に封ぜられた。天福4年(939年)2月、勅命により果州団練使となり、両浙副大使・検校太尉が加わった。
天福5年(940年)4月、享年16歳で薨去。孝献と諡され、銭塘の天竺前山に葬られた。『呉越備史』によれば、弘僔の世子府が設置される頃、民間では「鹿脯(鹿肉の脯であり、祭物を意味する)はどこにあるのか?」という流言が出回り、世子の居所にある塀やいくつかの場所には「4月29日に仙人たちが会うだろう」という落書きが書かれた。実際に、弘僔がこの日に逝去したことで予言は立証された。
脚注
[編集]- ^ 『呉越備史』巻3, 文穆王 天福五年四月甲子条による。
参考文献
[編集]- 『呉越備史』
- 『資治通鑑』