鍋島茂賢
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 元亀2年(1571年) |
死没 | 正保2年2月9日(1645年3月6日) |
別名 | 茂忠、(通称)孫六、七左衛門、伊豆守 |
戒名 | 恭法院殿浄信日正大居士 |
墓所 |
佐賀県佐賀市の妙玉寺 長崎県長崎市の菩提寺 |
官位 | 安芸守(ただし受領名) |
主君 | 龍造寺隆信、政家、鍋島直茂、勝茂 |
藩 | 肥前佐賀藩家老、同藩深堀邑主 |
氏族 | 名字:肥前石井氏(本姓:藤原氏)、深堀鍋島家(本姓:平氏) |
父母 |
父:石井信忠、母:大宝院(石井忠俊の娘) 養父:深堀純賢、龍造寺政家 |
兄弟 | 茂里、茂賢 |
妻 |
龍造寺家俊の娘 真光院(龍造寺長信の娘) |
子 | 鍋島茂里(志摩守)、深堀長賢、深堀直賢、石井茂紹(養子、石井生札三男) |
鍋島 茂賢(なべしま しげまさ、元亀2年(1571年) - 正保2年2月9日(1645年3月6日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。深堀 茂賢(ふかほり しげまさ)、石井 茂賢(いしい しげまさ)とも。肥前国の戦国大名龍造寺氏の家臣。佐賀藩主鍋島家の家老。
佐賀藩深堀邑主(深堀氏第20代、深堀鍋島家初代)。前室は龍造寺家俊の娘、後室は龍造寺長信の娘真光院。
来歴
[編集]龍造寺氏の重臣石井安芸守信忠の次男。母は大宝院(石井左衛門尉忠俊の娘、陽泰院の姪)で、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂の従姉にあたる。
孫六、七左衛門、伊豆守、安芸守、茂忠と称す。系図によっては、龍造寺政家の養子になっているものもある。
少年時代は、神社の本殿を鉄砲で撃ち抜くなどの悪戯をしたといわれる。また、武勇の誉まれ高く、歯に衣着せぬ物言いの豪胆な器量を備える一方、頭脳明晰で心優しい一面もあったとされる。
父信忠の戦死後、母大宝院は、肥前国俵石城主深堀安芸守純賢に再嫁した。その際に、茂賢は母の連れ子として純賢の養子となり、深堀氏の名跡を相続した。深堀氏は、鎌倉幕府の有力御家人三浦氏の後裔とする国衆であった。
その後、実兄鍋島茂里や親族の石井三右衛門尉とともに、人質として豊臣家に預けられ、九州征伐にあたり肥前国に帰還する。
文禄・慶長の役では、養父純賢の陣代として茂賢が深堀隊を率いて善戦した。
その後、茂賢は、養父純賢と共に、鍋島直茂により鍋島姓を授けられ、佐賀藩深堀領6千石を拝領する。
関ヶ原の戦いに続く柳川の戦いでは、兄鍋島茂里と共に鍋島隊の先鋒をつとめ、武勲があった。
キリスト教に深い理解を示し、来日していたドミニコ会のスペイン人宣教師アロンソ・デ・メーナ神父と懇意になり、鍋島勝茂に引き合わせて、佐賀城下のドミニコ会の教会建設に尽力した。
正保2年(1645年)、死去した。墓所は佐賀県佐賀市本庄町鹿子の大宝山妙玉寺。死去に際し、家臣・与力18名が、周囲が反対する中殉死を遂げ、茂賢夫妻とともに妙玉寺に葬られた。配下の侍たちによれば、「我らは、45年前の柳川の戦いのとき、『ともに討ち死にしよう』と誓い合ったのだ。あのときの約束を破るわけにはまいらぬ」と殉死を強行した、と伝えられている。